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コラム

■2011年5月~

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使徒言行録9:31

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 5月12日は私たちの保谷教会の誕生日です。記録によりますと、1953年5月12日のことです。この日ルーテル教会の規則に従って、日本福音ルーテル保谷教会として教会組織をした日です。当初東京老人ホームの集会室で主日礼拝が守られ、祈り会が持たれ、地域に開かれた教会の働きとして教会学校活動も始まり地域との接点も次第に広がっていました。当時東京教会の本田伝喜牧師を中心に東京老人ホームのスタッフの方々の協力によるものです。派遣神学生だった私は主日礼拝の奉仕の機会を与えられホームの方々との交わりを持つことができました。
 東京老人ホームの中から、現在地に保谷教会が会堂と牧師館を与えられ宣教活動を始めたのは7年後1960年12月20日献堂式を迎えてからです。「地域教会」形成を目標としたと「保谷教会30年記念誌」は記しています。それをまとめ要約してみますと、当初の「伝道領域」は小金井・吉祥寺・保谷・田無地域が考えられ、伝道重点地区として柳沢・東伏見・武蔵野大学近辺があり、「牧会領域」としては保谷・清瀬・小平・都区内を結ぶ領域で点から線へそして面的展開を課題としていました。
 今日保谷教会は神さまのお支えとお導きのもとに力を合わせ、救い主イエス・キリストのメッセージを携え、伝えています。聖霊に導かれ福音宣教に遣わされた使徒たちの働きは基礎が固まり成長していったと聖書は伝えています。その教会の歴史の一端に私たちも立つ恵みを感謝して覚え、大きく変わりつつある「宣教領域」の課題と向き合い成長する者でありたいと思います。 (08・6月コラム/保谷教会 30年史・50年の歩み)

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箴言23:17・18

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 通常の災害は一定の場所、一定の時間、一定の社会グループに限定されますが、原発事故はそうではありません。被害の広がりは険しく世界に及び、社会グループも拡大し、時間も世代を超えて複雑・長期に影響を与え続けます。
 「想定外」という言葉が東日本大震災の災害について当然のように目にし口にされてきました。しかし「想定外」とは文字通り夢想だにしなかったことではなく、逆に本来身近なことを「なかったこと」にすることではないのか。「想定外」とは事実認識のエラーというより、私たちの態度の問題なのだと矢守克也氏(京都大学社会心理学)は指摘しています。また「この災害にとって自分は第三者なのか当事者なのか、後者だとすればいかなる意味でそうなのか」。これは、今、私たち全員に突きつけられた課題でもあるという指摘(「噴火のこだま」九州大学出版会)は、これからを考え行動する出発点を示唆する大事なことだと思います(朝日新聞ニュースの本棚)。
 保谷教会では、現地で献身的奉仕に従事するボランテアの方々に感謝し、学びつつ、私たちにすぐ出来るところからと義援金や支援物資の発送に併せ「共同の祈り」を通して「私たちの悲しみによる連帯が子どもたち被災者の人生に神の愛を実現させますよう」神さまの導きを祈り、先週チャリテイコンサートを開催し支援に協力しています。そして、一日も早い「立て直し・復旧」を願い「復興」への槌音を感じています。

(牧師 古財克成)

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テモテへの手紙二4:2

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 聖路加国際病院の理事長日野原重明先生が「90歳・私の証」(朝日新聞)の中で横浜本郷台キリスト教会の活動について「山を動かす信仰」の業として紹介していました。
 1969年に伝道を開始し、現在副牧師5人体制で幅広く教会活動が続けられ、日野原先生が説教を担当された時「約500人の信者のほか地域の方々も100人ほど集まっていた」そうです。「礼拝後5キロはなれたチャペルに案内され、教会の多彩な活動に驚かされました。登校拒否などの子どもたちに授業をし、サッカースクールや保育園のほか障害者のための作業所や高齢者の訪問介護ステーションなどの働きに、教会がこのような社会的・教育的・福祉的な活動をやっているとは全くの驚きでした。信仰と宗教の偉大さを痛感もしました」と概ね記しておられました。
 社会の現実の諸課題を提供された宣教メニューとして取り組む教会の姿の一面でしょうか。成長 と働きの目覚しさに驚きとともに新しい気づきを思い起こしました。
 1955年春神学校を卒業し、開拓伝道に派遣された私は、手探りのように先輩の諸先生の働きを 参考に、間借りした畳の部屋に住み主日礼拝を始めました。任命された時に聞いた「羊を狼の中に 遣わすようなもの」という主イエスのみ言葉をかみ締めたとき「狼も共に礼拝できたら」と一人黙想し、 主イエスのみ言葉は遣わされた地域にあって教会だけができる大事な宣教課題を示唆するものでは なかったかという「気づき」を与えられたことでした。

(牧師 古財克成)

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イザヤ書55:10~11

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 仙台キリスト教連合会を母体として「被災者支援ネットワーク」の働きが続けられていますが、その働きの一つ「心の相談室」が主催し、5月上旬、宗教者や医師が一堂に会し「祈りの心-東日本大震災に宗教はどう向きあうか」というテーマで東北大学を会場に講演会が開催されました。「妻や子を亡くし、家をなくした職員を目の前に、今は何もいえず、ただ共にいる。礼拝の言葉は私には届かない」と高齢者福祉施設の運営者の言葉、「被災した患者が求めることに、医師は科学で対処しきれない。後ろで宗教者に支えてもらいたい」と訴えるような医師の言葉。遺体安置所を回り読経した僧侶は「がれきの中で作業していた四、五十人が後ろで合掌していた。ひととき彼らは手を止めて、日常から離れた。読経は死者だけでなく生きる人たちのためでもある。宗教にできることはある」と語った言葉はそれぞれ鋭く深く私たちの心に沁みる言葉です。
 「仙台キリスト教連合会では仏教団体と一緒に斎場の一角に机をおいて毎日カトリック・プロテスタント、仏教の宗教者が座り、遺族の求めに応じて弔いやお祈りをし、医師やカウンセラーも紹介している」ということです。「座ってみて宗教には近寄るのをためらわせるイメージがある。でも諸宗教が力を合わせて座り続けている事実が意味を持ち始めていると感じる」と川上直哉牧師は語っていました。復旧を祈り被災者支援に参画するルーテル支援センターの働きを覚え神さまのお力添えを祈ります。

(牧師 古財克成)

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エゼキエル書18:31

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 いま東日本大震災で被災した方々と被災しなかった人々との間の「隔たり」が広がっていると感じるとは哲学者鷲田清一先生(大阪大学総長)の言葉です。第二次世界大戦後60数年経っても、戦争で受けた傷、大切なだれかに死なれた事実をまだ受け容れられていない人がいるように、語りなおしは苦しいプロセスです。自分をこれまで編んできた物語を別なかたちで語りなおさなければならないからです。6月となるとそのプロセスの厳しさを痛感します。
 1945年6月18日「鉄の暴風」と形容される悲惨を極めた沖縄で「ひめゆり部隊」の集団自決、23日沖縄戦の終結の日をむかえます。中学の同級生宮城君は沖縄戦で家族を奪われ、戦後その悲しみと痛みを負って沖縄に帰っていきました。相撲が強く人気者の小学校の同級生だった遠藤君はサイパン戦で両親を奪われ、戦後奇しくも私は大森教会で再会を喜んだものの、6月に基地が集中する沖縄を旅する途中、事故により亡くなりました。「沖縄慰霊の日」が来ると、記憶の中の彼らの後ろ姿と笑顔から現実の広がる「隔たり」を痛感します。
 「どうして死んでよいだろうか」神さまの深い愛の痛みに支えられ「語りなおし」の道程を「隔ての」中垣を十字架に担いきる救い主に委ねたい。

(牧師 古財克成)

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コリントの信徒への手紙二4:8~9

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 サッカーの女子ワールドカップでなでしこたちの歴史的快挙を伝える「よき音信/福音」に、東日本大震災から立ち上がろうとする日本中が沸きました。「PK戦前の円陣には笑顔すらあった。悲壮感や根性論とは無縁の、スポーツの原点である「プレーする喜び」が彼女たちの全身からあふれていた。そんな姿に日本中が熱狂したのは、大震災以降の重苦しさのなかで、人々がなでしこの快進撃に希望や期待を重ね合わせたからだろう(朝日新聞社説「なでしこ世界一」伸びやかさを力に)とあるとおり同感です。また、なでしこたちは国を励まし世界を驚かせました。「この勝利は、地震と津波の被害から復興する国にプライドを与えた」(USAトウデイ紙)。「日本の奇跡が世界を制した。東日本大震災による地震と津波、放射能に苦しむ民族に、比類なき自信を与えるだろう」(中国新華社通信)と絶賛しています。
 福島県広野町のレストラン「サンマルコ」のオーナー鈴木孝一さんは「今店は原発事故を受けて休業中ですが鮫島彩選手と丸佳里奈選手もよく来てくれた。彼女たちの諦めない精神力で打ち勝ち、原発事故で沈む気持ちに元気をもらった」(「復興へ勇気の芽」朝日新聞)と話していました。おやじギャグを連発するおおらかな佐々木則夫監督の人柄を「選手にも腰が低く、決して上から目線でやらない」という関係者の言葉にも教えられるものがあります。「夢をもって決して諦めないで」と子どもたちへのメッセージを沢穂希選手は語っていますが「決して諦めない」なでしこたちのもたらした音信は多くの人に喜びと希望を伝えたことでしょう。聖書の福音とは救いの希望を伝えるよき音信を言います。

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列王記上3:9

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 1837年7月30日浦賀沖に日本人漂流船員送還のためモリソン号が来航しました。鎖国政策下で幕府はこれを砲撃して上陸を許可しませんでした。8月12日帰路鹿児島港に立ち寄るも砲撃を受け、上陸できずマカオに向かいました。実はこの時日本語訳聖書を手にする最初のチャンスだったようですが機会を生かすことができませんでした。
 日本語の聖書で最初に紹介されたのは、ヨハネによる福音書とヨハネ書簡です。ヨハネによる福音書はカール,ギュツラフが3人の日本人漂流船員岩吉・久吉・音吉の助けを借りて、マカオで翻訳され、1837年シンガポールで木版刷りで印刷されたものです。聖書翻訳に協力をした漂流船員岩吉・久吉・音吉の三人は、その後エドウィン・モリソン号によって日本に送還されますが1837年7月30日祖国を目前にしつつ上陸を拒否され、砲撃を受けモリソン号は浦賀沖を去りました。三浦綾子の小説「海嶺」は尾張米を積んで鳥羽港から江戸に向かう千石船「宝順丸」が遠州灘で遭難し14ヶ月間漂流後北米西海岸に漂着した乗組員14名中奇跡的に助かった岩吉・久吉・音吉の聖書翻訳協力に至る数奇な人生を描いています。
 今NHK連続ドラマ「テンペスト」ではギュッツラフの影響を受け1846年5月家族で琉球にわたり迫害を 受けながら医師として奉仕するベッテルハイムが登場していますが、彼はルカとヨハネ福音書・使徒言行 録・ローマ書を日本語に翻訳1855年香港で出版しました。日本語聖書に関る背景を通して浮き彫りにさ れる歴史には不思議な力が働いているように感じます。神さまの語りかけでしょうか。聞く耳を持ちたいと思います。

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箴言26:11

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 「無残すぎて、もう広島は思い出したくない」率直な心の叫びであった。1945年8月6日午前8時15分、爆心地から2キロ。爆風は仮眠していた遠藤昌弘さんを吹き飛ばし、壁にたたきつけた。外に出ると、黒く、肌がずるむけになった女性たちが「助けて」とうめきながら倒れていく。遠藤さんは避難先の小学校の講堂で敗戦を知った。8月末髪が抜け下痢がとまらなくなった。戦後郷里の南相馬市に戻り町役場に就職し土木課に配属された。
 やがて日本経済は驚く早さで成長を始めていた。鉄鋼や造船、自動車などの重工業は、働き手として農村から若者を引っ張っていった。補助金で町が豊かになる。雇用も生まれる。遠藤さんは原発建設に必要な石を運び出す道路をつくるため用地交渉にあたった。「原発は平和産業、雇用をつくる地場産業です」と頭を下げた。「私は被爆者だから放射能の怖さをよく知っています。原発と原爆は違います。安全なのです」と。原発は「平和産業」だと信じてきた。
 福島第一原発で3月12日水素爆発が起きた。20キロ圏外に逃げるように言われ、遠藤さんはあてのないまま10キロ先の体育館へ、そして250キロはなれた神奈川県相模原の知人宅にたどりついた。妻と過ごしてきた自宅は警戒区域にある。どうなっているのだろう。
 無残な被爆そして悲惨な被曝を体験した遠藤さんは核の時代の現実を「目に見えぬものに逐われて春寒し」と詠んだ(朝日新聞「核の時代を生きて」より)。貴重な証言です。
 やがて私たちは66年目の8月6日広島原爆被爆、9日長崎原爆被爆の日を迎えます。毎年広島・長崎の「平和宣言」には貴重な気付きを与えられますが、「過ちは二度と繰り返しません」の主語を確認していくことが大事だと思います。

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エレミヤ書6:14

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 戦後66年が経過しました。8月15日は「終戦記念日」とカレンダーには記載されています。歴代の首相は「あの戦争」「先の大戦」などと呼び、聞く側も疑問もなしに1945(昭和20)年8月15日に終わった一連の戦争のことと受け取って来ました。きちんとした名前を与え、現代史に定着させるべきだ。自国が関与した戦争に呼び名を持たないのは、国民の歴史認識があいまいなためと言える。と桜美林大学名誉教授沖晃氏は指摘していますが真を突いた言葉だといえます。
 なるほど「大東亜戦争」「太平洋戦争」「第二次世界大戦」「15年戦争」「アジア太平洋戦争」などと種々あります。「第二次世界大戦」は1939年9月1日ドイツによるポーランド侵攻に始まり、アジア・太平洋戦争から1945年8月15日の日本の「無条件降伏」宣言と、同9月2日東京湾で米軍戦艦ミズーリ号で行われた日本の「降伏文書調印式」をもって完全終結したことを踏まえています。
 戦争は人間が自らの手により造り出した兵器・核を自ら用いて相手を破壊し、破壊され、傷つけ殺しあう罪と不幸な人災です。親子兄弟をはじめ親しい人間関係を容赦なく分断し、非情な憎しみと報復が支配し、そして生命を破壊します。その責任が当然問われます。「終戦記念日」は平和を改めて確認し、歴史と現実を見直す機会ではないかと思います。「私たちは皆被害者であり、同時に加害者です。私たちの無関心により、この地震国に54もの原発ができるのを許してしまいました・・・」原爆の日前夜、広島の世界平和記念聖堂のミサの祈りの言葉です。

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詩篇18:29

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 去年のクリスマスのこと、前橋市の児童相談所玄関前にランドセル10個をおいた「伊達直人」氏がいました。「伊達直人」というのは約40年前の人気アニメ漫画「タイガーマスク」の主人公の名前です。このひっそり灯した明かりが、匿名の人たちによって次々分火され、「運動」と呼ばれ、岩手県から沖縄県に至る13箇所で同様のプレゼントが確認されました。しかし、匿名の善意も拾得物として警察に届けなければならないケースもあり、扱いが難しいことも報じられたこともあり、何時しか伊達直人氏は去っていきました。
 「誰もが小さな善意のロウソクを持っている。善意を効果的に届けるには、寄付文化を根づかせるには、どうしたらよいか。照れや気負いの覆面を外し、考えるきっかけにしたい」(朝日新聞社説「タイガーマスク・善意の文化を育てるには」)とありました。また、テレビアニメで伊達直人の声を一時担当した声優の森功至は「本当はタイガーマスクの出番がないような、みんなが幸せな世の中になってほしい」とコメントしていますが善意の原点かもしれません。
 「私は幸せな気持ちになりました」と結んだ出来事を東京府中市の広瀬さんが「声」に寄稿したのを読みました。「名古屋から東京行き新幹線に乗った時、隣の窓側の席に小学校低学年の男の子がリュックと手提げ袋二つの大荷物をもって座っていました。もうすぐ新横浜というアナウンスが流れると、その子は早々と出口へ向かいました。しばらくすると戻ってきたので、なにか忘れ物かなと見ていると、私の前を「すみません」といいながら席に戻り、座席のリクライニングを元に戻したのです。自分だったらまあいいかとそのまま降車したと思います。私はその子の行動に幸せな気持ちになりました。」「誰もが小さな善意のロウソクを持っている。」混迷する世の中に積極的に灯したいと思います。

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コリントの信徒への手紙二5:18

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 スカンジナビア諸国のルーテル教会は、古くから日本伝道に協力して来ましたが、昨年12月スウエーデンで自爆テロが起こり、7月22日にはノルウエーでテロによる77人が犠牲になりました。「穏やかで、平和で寛容な」美しい福祉国家北欧に悲しみが走りました。
 9・11とは違って、表向きは普通の青年で過激派にも属さない青年が捜査網をすり抜けてテロに及ぶ「一匹おおかみ」の脅威を見せつけたのです。悲しみが包む中、ノルウエーのストルテンベルグ首相は「さらに寛容な社会をつくる」と宣言、テロを前にして憎む相手を探すのではなく、国民が結束してより良い社会を目指そうと方向を示しました。多様な民族や文化の共存、再生の大事な指針とも見えます。
 9・11から10年がたちました。悲しみと憎悪とそれを乗り越えようとというひたむきさの中で、前米国務長官ライス氏は「地球上で最大の武力と経済力をもつ米国が、破壊的な攻撃を受けた。実行したのは国家をもたない過激派組織で、アフガニスタンの国土から指揮されていた。私たちは根底にある原因について何度も考えた。9月のよく晴れた日に飛行機をビルに激突させるほどの憎悪を生んだのは、一体何なのだろうか」と振り返り、2002年国連でアラブ諸国の学者たちによる「アラブ人間開発報告書」の指摘した「人間の自由の尊厳・女性の権利拡大・知識の入手」これらの欠如が、人々の進歩を阻み、人々の心に穴があき、そこに過激主義や憎悪が入り込んだと述べました。なるほど独裁者は政治が公共の場で行われるのを許すことはしません。しかしライス氏は続けて「9月11日は、敗北や弱さや、世界超大国の没落という考えを思い出す日ではない。悲劇と勝利の中で力を結集し、自由が世界に広がることを宣言する日である」と述べたそうです。
 遭遇した「悲劇と困難」を積極的に位置づけ、方向を常に示してきたのは聖書でした。その務めへの呼びかけに今一度聞いて行きたい思いです。

(牧師 古財克成)

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ローマの信徒への手紙1:17

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 現在地が記入されていない地図で行く道を探すのは厄介なことです。宗教改革者マルチン・ルーテルは1522年聖書をドイツ語に翻訳を始めましたがその時、新約聖書全体への序文を書いています。新約聖書・旧約聖書全体として出版されたのは1534年のことですが、その時旧約聖書序文を書きました。聖書の宗教改革的な読み方を示すためでした。「聖書はこういうしかたで読むもの」と、恰も地図に現在地を記したようにです。「旧約聖書は律法を教え、罪を示し善を促すのが本来の教えであり、これと並んで、これを守った人と守らなかった人の歴史が書かれている。新約聖書はキリストにある罪の赦しにより、恵みと平安(福音と神の約束)をのべ伝え、これと並んで、これを信じた人と信じなかった人の歴史が書かれている(旧・新約聖書序文)」とあるとおりです。
 宗教改革の口火は1517年10月31日修道士であったマルチン・ルーテルが提示した95か条の提題によります。その中心は「悔い改めにおいて真実であること」に始まり「イエス・キリストにおける神の愛を信じる信仰による救い、福音の正しい回復」にありました。宗教改革が起こる「社会的背景」や「文化的影響」も確かにあります。しかし、背景や影響は事柄に対する「前提」であり、それがもたらした「結果」であって、事柄そのものではありません。背景も結果も宗教改革そのものではないのです。
 やがて宗教改革記念日を迎えます。激変するこの世界の現在地を確かめ、聖書に学び、福音に生きる契機としたいですね。

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コリントの信徒への手紙一10:13

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 東日本大震災による東北、関東と広がる津波の爪痕、原発事故に、ただただ驚愕し災害の巨大さに呆然とした3・11は記憶に新しい。作家であり医師である加賀乙彦氏は「戦争中の都市爆撃の被害と残酷、広島・長崎の原子爆弾の巨大な被害と考えられる限りの苦しみと破壊、艦載機の銃撃を重ね、あの地獄の苦痛と、それに対する対策が後手後手で今度の大震災の被害によく似ている。」しかし「原発の破壊を復旧し、救命活動に励む献身的な人々の活躍には感動を覚え、ボランテアとして黙々と被害者のために働く人々の熱意に感動し、日本の未来には明るい希望があると思った」と言っていますが同感です。再建という希望が残ったのです。
 ギタリストの村冶佳織さんは女子聖学院在学中、本格的音楽活動と学業の問題で真剣に悩んでいた時、当時校長の小倉義明先生から「神は乗り越えられる試練しか与えないんですよ」と聖書の一節を引用し目の前の困難を乗り越える大切さを教えてくださった。聖書と小倉先生のこの言葉は数年前右手の麻痺によりギターが弾けなくなり活動休止の苦悩の時にも耐え待ち、くじけない姿勢を貫く支えとなった」と「楽しい教室」(朝日新聞)に書いていましたが困難を乗り越える心は希望への扉を開くのですね。
 「帰る家もどる巣ありて秋の暮」木内怜子。今年は数万人が「帰るべき故郷」や家を奪われたまま、心身にぬくもりがいる季節を迎える。国中が故郷になり家になり、被災者を支えたい。(「天声人語」朝日新聞)

(牧師 古財克成)

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マタイによる福音書20:1~16

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 第二次世界対戦後母が結核のため入院しました。当時中学生だった私は春と夏休みに所謂アルバイトをしました。薬も栄養も不足していた時代です。少しでも補えればと労働者に混じり街角の集合地に早朝から立ち並び、仕事を待ったこともあります。仕事が回って来なかった時は実に空しい気持ちで帰ったものです。でも大人に混じり、市内の焼け跡の整理作業をしたことがあります。大人にとって中学生の私の働きは足手まといだったと思いますが、その日の日当は大人の人と同じだったのでびっくりしました。それを見た人が「それはおかしい」と意見していましたが、監督は「みな約束どおりです」と言いきりました。私は嬉しさと何か複雑な思いが交差していましたが、小見出しに「ぶどう園の労働者」のたとえとあるイエス・キリストのたとえを思いました。早朝雇われた人も、遅く夕刻に雇われた 人も約束通り同じ賃金を手にしました。絶望に近い思いで夕刻まで立っていた人、嬉々として早朝から汗して働いた人の「正負」いかばかりかは到底計りがたいことです。日野原重明先生が「人生の帳尻はみな合っているのです」といっておられますが「一日一デナリオンの約束」の恵みを大切にしたい思います。

(牧師 古財克成)

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マタイによる福音書24:35

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 「人間の世界において、ただ一つ真理らしく思われたのは、それだけでした。一切は過ぎて行きます。」と太宰治は「人間失格」という作品の終わりのところで書いています。無情感が漂う寂しい響きがあります。多くの人が共感する言葉のようですが人生で受けた数々の傷と痛みからくる呻きとも祈りとも感じます。
 この「過ぎ行く」ものに対して変わらないものを「永遠へ思い」といえます。高く澄んだ夜空の星を見て永遠を直感し、人間の理性ではどうにも証明できない「神さまの世界」を哲学者カントは確信したと聞いたことがあります。
 「見上げてごらん夜の星を小さなほしを・・・」という歌があります。晩秋の澄んだ夜空の星に「千の風」を頬に受け止め見上げる人は今年少なくありません。ささやかな星の光に永遠への思いの囁きを聞き、神さまの愛のまなざしを感じます。
 イエス・キリストは「一切は過ぎ去る」と多くの人が感じる時「天地は過ぎ去ります。しかし神のみ言葉は過ぎ去ることはありません」と告げ、変わらない神さまの愛と働きを証ししました。

(牧師 古財克成)

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エレミヤ書6:16

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 世間を驚愕させた坂本 堤弁護士一家殺害事件。そして1994年の松本サリン事件に次いで1995年地下鉄サリン事件と、多くの犠牲者を出したオウム真理教事件の公判は1996年に始まり、この11月21日最高裁判所への上告棄却となって刑事裁判は終わりました。「人を救うはずの宗教であり信徒集団が、なぜそんなことをするのか」という疑問の解明、総括はないまま終わったようです。「オウム真理教」と名乗る宗教団体は無くなりましたが「アレフ」や「ひかりの輪」に名称を変え全国的に活動は継続しています。
 「宗教は人の心に平安をもたらし、平和な社会を築く肯定的な作用があるが、半面、自らの正しさを強調するあまり独善的・排他的になったりもする。負の面が極端な形で出たのが一連の事件」と中川智正被告は弁護人を通して朝日新聞貴社に手紙を寄せたそうです。組織が持ち合わせる傾向の一つです。
 特異な集団が起こした特異な事件と報じられ、受け取られていますが、その集団が私たちの生きる地域社会の中に生まれ育っていたということは、実は私たちにとってはとても深刻なことだったと思うし、問い続けて行かねばならない課題ではないでしょうか。

(牧師 古財克成)

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ヨハネによる福音書20:25

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 「二重人格」を意味する言葉にステイーブンソンの「ジキル博士とハイド氏」という小説があります(1886年)。ジキル博士は善悪に性格を二分する薬を発明し負の人格ハイドを創造し、悪の衝動を解放し自らの破滅に終わります。少し前の小説にスタンダールの「赤と黒」を学生時代読んだことがあります。貧しい有能な青年が社交界に入ることを徹底的に阻止する偽善に満ちた社会の現状を暴露し処刑されたジュリアンが「死のほんの一歩手前のところで、自分自身と話し合っていてさえ、まだうわべをつくろったりするんだから」という言葉に何か「本音と建前」を見る寂しさを覚えたことがあります。
 「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」と真剣に悩み罪ある自分を「なんと惨めな人間なのでしょう」と告白したのは使徒パウロでした。「裏を見せ、表をみせて散るもみじ」(良寛和尚)です。
 キリスト・イエスの弟子に「デイデイモと呼ばれたトマス」がいました。「デイデイモ」と言うのは「双子」の意味です。彼は「双子」だったかも知れませんが彼の生き様を見ると彼の性格的二面性を表現したものだと思います。キリストに実に忠誠な面を見せると共に実に懐疑的な面があります。しかし、それに応えるイエス・キリストの言葉は慰めと励ましをもって「わたしは道であり真理であり命です」と教え「信じるものになりなさい」と信仰の大事な真理の道を明らかにされました。古くから伝わる教会の暦はクリスマスを迎える待降節に入りました。その暦に「使徒トマスの日」記念日があります。12月21日です。「救い主」到来を考える好機のようです。

(牧師 古財克成)

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ネヘミヤ記9:31

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 大阪市長・大阪府知事ダブル選挙は維新の会橋下徹氏と松井一郎氏圧勝に終わりました。「今の政治はには二つの潮流がある」という佐伯啓思氏(京都大学教授/社会政治学)は「一つは閉塞感を打破するために既得権益を壊し、すべてを一新しようとする流れ」「もう一つは構造改革や政権交代が成果を出せなかった反省から急激な変化を警戒し、少しずつ地道に変えていこうとする流れ。この二つがせめぎあっているが、急激に変えようとする流れの方が強い。維新の会の圧勝はそれを示している」と分析しています。この強い流れが民意を表しているのかどうかは大事な課題でしょう。
 一つの国会に与党と野党という対立する考えがあるから真剣に国政が営まれるよう議会がありますが、理念もなくヴィジョンも曖昧、与野党大差なく与野党という形で実質的にとらえられなくなったら国会は形骸化する危険があるでしょう。
 旧約聖書にエズラ記・ネヘミヤ記があります。大体ソクラテスと同じ時代ですがこの二人が民衆を集め自分たちがパレスチナの地に神殿を中心に生活するのはいかなる歴史的根拠に基ずくかと言うことをアブラハム・モーセの時代までさかのぼり、歴史的順序に従って順々に述べ、歴史的裏づけのないことを切り捨てていくところがあります(ネヘミヤ記8~10章)。そこに貫いているのは正直な現状認識とそれでもなお「見捨てようとはなさらなかった神、恵みに満ち、憐れみ深い神」の導きでした。今日考えさせられる聖書のメッセージです。

(牧師 古財克成)

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コヘレトの言葉3:17

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 1941年12月8日朝、真珠湾攻撃の臨時ニュースに「とうとう始まった」と母は短くつぶやくように言いいました。その心境を当時小学校4年生の私は聞きだすことはできませんでしたが暗く厳しい表情だったことは分かりました。先の見えない日中戦争に続く多くの犠牲を強いた苦しく辛い戦争の始まりでした。家族を分断し仲間を奪い3年8ヶ月後に全面敗北に終わりました。多くの少年たちの夢を砕き混沌とした闇に放り出されたような思いでした。
 小学校時代の同級生の8割が消息不明と記載された同窓会名簿を手にしたのは20年後でした。水泳大会で活躍した友も、一緒に剣道の対校試合に出た友も成績のよかった友も消息不明とありました。3年生の時デューマの「三銃士」を一緒に読み読書への楽しみを教えてくれた先生も不明とありました。12月8日は8月15日と共に戦前・戦中・戦後に跨る複雑な記憶が錯綜します。
 加藤陽子氏(東京大学教授/日本近代史)は「当時軍部・政府の専門家が無謬性の神話にとらわれ、外部の批判を許さない点で共通。軍部は日露戦争の戦勝を神話化し自国軍の能力を客観視する目や、欠陥を指摘する人々を排除していきました。」(真珠湾が教えるもの)と指摘していますが3・11から原発問題を含め、なお注目に値する言葉だと思います。

(牧師 古財克成)

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詩篇19:2

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 「南極物語」というテレビドラマがありました。国際地球観測年(1957~1958)の一環として南極地域の国際共同観測が始まりました。戦後の厳しい時代環境と条件のもと共同観測の一員として第一次南極観測隊の結成からブリザード荒れる極地での越冬隊の活躍と労苦の物語です。そして犬橇のカラフト犬との愛情に満ちた交流など画面に引き込まれる思いでした。また、国内の賛否をめぐる人間関係などそれぞれの立場の真剣な取り組みの物語です。フィクションではありますが当時を偲ばせる迫力を感じました。
 私が札幌在住の時、南極観測船「しらせ」で派遣された気象庁の松島兄を東京桟橋に見送りました。その時、観測船内を案内してもらったことを思い出し、観測船「宗谷」の場面が重なりました。また札幌では長年島根大学で教鞭をとられた秋山優先生と出会ったことを思い浮かべました。秋山先生は藻類の研究者として観測船「ふじ」 で南極に行かれました。秋山先生ご夫妻と共に聖書を学ぶその交わりの中で、南極の死海の話を聞きました。南極の塩水湖です。「スカルブスネスというところにある湖沼は現在の海面より24m低いところにあり、昔の海が大陸の隆起によって切り離されてできました。約3万年前と推定されます。そこは現在の海水の6倍の濃度の塩分で昔海だったころの生物の死骸がたまっていて死の湖(死海)とでもいうものです。しかしその静寂の中から舞い上がる悠久の歌声を聞かせてくれます。南極は生きています。」
 「話すことも、語ることもなく声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」(詩篇19:4・5)という実感でしょうか。秋山優先生・チエ姉ご夫妻はそれから二年後洗礼を受けられました。

(牧師 古財克成)

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ヨハネによる福音書16:33

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 年末風景が目だってきました。高齢者が10秒間に進める距離は若者より2m遅いそうですが、1年の過ぎる感覚は年齢分の365日で逆に早くなるそうです。忘れたいこと、忘れないこと、忘れてはならないこと多いこの一年でした。橋下旋風に石原都知事が「政党の馬鹿が手玉に取られてる」と評したそうです。
 東京電力の社員から、星 浩さん(朝日新聞編集委員)は「福島県内ので原発事故のお詫びで回っているとき賠償・風評被害の問題で避難を浴び約3時間頭を下げ続けた。会合が終わり駆け寄った年配の女性から一枚のメモを受け取った。恐る恐る開いてみると一緒に頑張りましょうとあった。思わず涙がでた」という話を紹介していました。一つのものに裏表があるのに一つの対象を善玉か悪玉かに分けて見てしまうところに「原発神話」があったし、それが崩れたら一変悪玉となるような焦点は実は私たちが犯しやすい問題です。
 ローラ・インガルス・ワイルダーの「大草原の小さな家」が日本語に翻訳されたのは1949年のことですが、作者が日本の子どもたちにあてた手紙に「いつも一番いいことは、正直で誠実であること、小さな日常のよろこびで幸福だと感じること、苦しい時にも元気にしていて、危険な時に勇気を持つこと・・・」と語っていたと翻訳者の一人谷口由美さんは朝日新聞の教育欄で記していました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。新しくめくるカレンダーを前に噛みしめたい言葉です。

(牧師 古財克成)

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コリントの信徒へ手紙二5:17

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 祝聖降誕・謹賀新年
 重なる悔恨に厳しい世相のカレンダーから空白で待つカレンダーに掛け替えました。年末の塩釜の被災地の写真は復旧に程遠く、震災と津波による災害の瓦礫の山と破壊され浸水した幼稚園園舎を写していました。吉屋信子の一句に「初暦知らぬ月日は美しく」とありますが今年は不安ではなく、復旧復興への希望を期待したいとは多くの方々が願うことと思います。
 スエーデンのノーベル賞女流作家ラーゲルレーブの著に「キリスト伝説」というのがあります。その中の一つに幼子イエス・キリストを訪ねた東方の占星術の学者たちのことがあります。学者たちは途中星を見失い迷って疲れ果て一つの古井戸を見つけます。湧き出る冷たい水に一息ついたとき水面に写る見失った星を発見しキリストへの道を進みました。伝え聞いた旱魃は「あの学者たちはどうせキリストに会う希望がかなえば助けられた古井戸のことは忘れてしまうだろう。やがて古井戸は涸れはてるとも知らずにね」とつぶやきます。しかしその古井戸はひどい乾季にも水を湛えていました。旱魃は不思議に思い調べてみますと。あの学者たちが大勢のラクダで遠くの泉から水を運んでいました。「博士たちの井戸」の概ねのところです。
 ユダヤにとって東方は鬼門のような異邦の地です。「ユダヤの王誕生のしるしの星」を頼りに幼子イエスに出会い変わったのです。いや新しく造り変えられたのです。助けられた井戸が旅人たちに水を分かつことができるように配慮し仕えたのです。クリスマスを迎えた私たちもまた新しく造りかえられ新しい年を共に歩みたいと思います。

(牧師 古財克成)

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ローマの信徒への手紙13:10

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 今年25回となる「現代学生百人一首」の数首が「天声人語」に紹介されていました。その中に「被災地となった故郷を前にして震える母の肩を支える」(高2辻本有紀)。「顔知らぬ名前も知らぬ人達に生きててほしいと願った三月」(高2門脇優衣)。という震災を詠む惨状に胸を痛める歌がありました。1995年1月17日の阪神淡路大震災の惨状が重なります。
 わたしたちは突然襲う理不尽な苦難を前に「神さまどうして」という避けがたい問いを持っています。マザーテレサの言葉にこのような言葉がありました。「道路でわたしは小さな少女にあいました。そのこは粗末な薄い服を着て寒さに震えていました。食事ができたらという小さな願いを持って。・・・わたしは腹を立てて神さまに言いました。「あなたは何故これをお許しになったのですか。何故何とかしてやろうとなさらないのか」と・・・しばらくの間神さまは何もおっしゃいませんでした。その夜突然神さまは言われました。「あなたの問いに対してわたしは確かにあることをしました。それは、そのこを助けるためにわたしはあなたを造ったのだよ」と。
 復興への槌音はいつ始まるのか、なお問いが続く中でボランテアによる連帯と奉仕が続けられています。わたしたちは「そのためにある確かなことをした」と言う神さまの語りかけに「わたしのできること」をもって応え、できる参与への道を歩む恵みをこれからも続けたいと思います。「愛は律法を全うするもの」です。

(牧師 古財克成)

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詩篇4:3~4

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 原発40年で原則廃炉となる「原子炉等規制法」などの改正の方針が発表されたのは6日のことでした。東日本大震災前国内発電量の26%をまかなっていた原子力発電は2050年には0になる見通しですが二酸化炭素排出や節電問題など今後の課題も沢山あります。
 「人間らしく生きるとはどういうことか、真に生きることの意味を、今こそ深く問いつづけなければなりません」(宮田光雄)と大江健三郎は引用していました(朝日新聞「定義集」)が同感です。その上「あまりに多くの発電所で耐震安全性の前提となる活断層調査や安全審査に重大な欠陥がある」(「活断層と原子力発電所」「世界」1月号)と指摘しています。
 大江健三郎氏は前掲「定義集」に「環境や経済や社会と適合する度合いを考慮しながら、原発の能力をリスクの低いエネルギーで置き換えうる程度に応じて、原発の利用をできるだけはやく終結させるべきである」という結論に至るドイツ「倫理委員会」の報告書から「私はわが国の政府がそれに学ぶことを望んでいます」と提言しています。
 「言語化できないほど複雑な苦しみと思考、個々人で濃淡が異なる悲しみ」が震災と原発事故被災地の一人ひとりを包んでいないでしょうか。「わたしの王、わたしの神よ、助けを求めて叫ぶ声を聞いてください」。

(牧師 古財克成)

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レビ記23:28

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 「人間の罪を徹底的に見つめたドストエフスキーに親鸞は重なって見える。「あしきおのれ」という罪の意識をみつめ、心の闇を探り続けることで思索を深め、人間の根源的な悪というものを見つめた親鸞の思想はきわめて現代的な意味を持っているように思える。」(法然と親鸞/朝日新聞)と作家の五木寛之氏は言っていますが考えさせられる言葉です。
 今なお伝えられるユダヤの贖罪日に、各家庭で子どもたちに、この日について話し、見せ、教える習慣について聞いたことがあります。一家の主が同じ長さの二本の紐を見せ、一本の紐をとり真ん中に鋏を入れて切りながら「これは罪によって神さまとの関係が切断された人間の姿です」と言います。そして二つに切断した紐を一つに結び「これは悔い改めた人間の姿です。切らなかった紐に比べこれは短くなっています。人間は罪を犯さないで毎年過ごすことはできません。しかし、悔い改め罪を贖われると、そのまま天と地を結んでいた時より天は近くなるのだよ」と子どもたちが覚えるように教えるそうです。「祈りの門は時々閉ざされているように見えるが、悔い改めの門はいつも開いている」教訓としているのですがとても大事なことだと思います。
 改革者ルターは「大胆に罪を犯しなさい。しかし、より大胆に悔い改めなさい」と教えました。「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ」(エゼキエル書18:30)と神さまは呼びかけています。

(牧師 古財克成)

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使徒言行録16:10

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 ルーテル教会が日本伝道のためにアメリカのルーテル教会から最初の宣教師J・A・Bシェーラーが派遣されたのは1892年2月のことでした。毎年記載されてはいませんが、この時を記念し、今年2月12日は「JELC (日本福音ルーテル教会)宣教の日」とあります(2012教会手帳参照)。
 最初の伝道地として選ばれたのは九州の佐賀でした。二番目に派遣されたR・B・ピーリー宣教師(1892年11月)は、シェーラーと合流し翌年1893年4月2日復活日礼拝が佐賀で守られました。この日は「JELC(日本福し音ルーテル教会)宣教開始記念日」としています。
 ピーリーは佐賀が伝道地に選ばれた経過の一つに「佐賀の公立学校の英語教師として就職していたブラッドバーリー博士がシェーラーに手紙を書き、佐賀がよい伝道地で必要なところだと説明し来るように求め」たと「日本伝道開始の記録」に記しています。
 佐賀郷土資料館にある17世紀初頭の地図には南蛮寺(教会)が記載されていますが長崎と福岡を結びキリシタンの交流も大きかったようです。当然のことながらキリシタン迫害期の信徒が残した信仰の証の記録も見ることができます。長崎に隣接した佐賀藩は1850年西洋式反射炉と「大砲鋳造所」を建設、激動期に時代の先端を行く一面をもっていました。
 マケドニヤの声はさまざまな時代環境の中で生きる人々の魂の叫び、祈りがあったと思います。それは今なお祈りの内に小さく大きく響いてくる声のようです。マケドニヤの声を受け止め応えた先人を覚えたいと思います。

(牧師 古財克成)

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コロサイの信徒への手紙3:12~14

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 「人間関係」を「じんかん関係」と表現した学者がいました。人間は「人と人とのあいだ(間)がら(関係)を生きる」からだということです。その間柄関係を天災や人災による災害は一瞬にして破 壊し飲み込んでしまいます。私は戦前戦中東京大森の馬込第一小学校に学びました。1963年大森教会に赴任した時、級友との絆を求めて馬込小学校を訪問し同窓会名簿を見て唖然としました。戦災という人災によりクラスの約80%がなお「行方不明」と記入されていました。
 災害によるばかりでなく、好景気の最中作家の故三浦綾子は定年退職した一人の男の歩みを「尾灯」で書いていました。「彼は札幌の会社で真面目に働き課長となって定年退職した。時々来てください。また一緒に飲みましょうという後輩の言葉を嬉しく聞き、会うこともあったが月日がたつと誰も声をかけてくれないし、誘っても来なくなった。彼は一人で飲み寂しく家路についた。終列車に乗るため札幌駅の階段をホームに向かう。やっとホームに上がってみると列車の赤い尾灯が見えた」という。人と人との間がらが目だって「利害得失」に侵食されてきたことへの警鐘のように見ます。
 2月9日の新聞「声」に3・11被災地の「がれきを受けいれ、広げよう」という訴えがありました。手を挙げた自治体もありましたが住民の抗議で撤回されています。放射能への懸念もありますが「「絆」であふれる世の中の、これが一皮むいた姿かと嘆く声もある。被災者は歯を食いしばり冬の寒さに耐えながら復興に向けて頑張っている。共に歩くために何を分かち合えるのか考えたい」(天声人語)とありました。同感です。「愛は、すべてを完成させるきずなです」

(牧師 古財克成)

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ヤコブの手紙5:13

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 「子らに残す言葉は一つ、我が家は朝な夕なに祈りする家」。北海道の近代美術の基礎を拓き多くの優れた芸術家を育てた林竹次郎画伯が残した言葉です。代表作に有名な「積丹半島」や、「朝の祈り」「坂本竜馬肖像画」があります。「朝の祈り」は北海道開拓百年記念当時、記念館に展示されていました。丸いちゃぶ台を囲み母と子どもたちが聖書を読み朝の祈りを捧げる敬虔なキリスト者の家族を描いたもので、不思議と観る人の気持ちを落ち着かせ心を平和で満たしてくれます。
 「朝の祈り」のちゃぶ台を囲む子どもたちの中に頭にリボンを結んだ女の子がいます。そのお孫さんにあたる方が函館教会の増田憲次郎さんご夫妻で私とはほぼ同世代です。増田さんご夫妻は戦後再建ルーテル教会の北海道伝道に対するご奉仕は甚大でした。そのお孫さんが札幌で小学生から中学生そして高校に進学するころ私は札幌在任中でした。明るく活発な彩香さんは「彩ちゃん彩ちゃん」と皆から親しまれていました。昨年保谷教会のクリスマスイブ礼拝にお友達と一緒に出席され 約15年ぶりにお遭いし、びっくりしました。彩ちゃんはコラムを見て楽しみにしていると話していましたが「朝の祈り」の中のリボンをつけた女の子の祈りのリボンがなお継承される「祈りする家」を嬉しく思い起こし、主である神さまのお導きを深く覚えました。

(牧師 古財克成)

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ローマの信徒への手紙15:4

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 この冬は凍りつくような冷たく厳しい寒波が列島を包みました。ある動物園の昆虫館でアゲハ蝶のさなぎを冷蔵庫に入れて冷やし、お正月に羽化させるとう話を少々抵抗感を覚えながら聞いたとき小学校のころ理科の時間に「花の球根は美しい花を咲かせるために寒い冬に低温に会わないといけない。厳しい寒さに出会うことで球根の体内に将来の発育の原動力を育むのです。これを春化現象といいます。君たちもこれから冷たく凍るような時が来るかもしれない。それは花を咲かせる準備の時としよう」と教えらたことを思い起こしました。昆虫や植物にとっても冷たく凍るような寒さの経験は命の躍動する春を迎える大事な忍耐と試練の時なのでしょうか。
 旧約聖書の中に雅歌という詩歌書があります。「ごらん、冬は去り、雨の季節は終わった。花は地に咲きいで、小鳥の歌う時がきた」(雅歌 2:11~12)と希望を歌う言葉があります。極限状態におかれた人間がいかにして生き続けることができたかを精神科医のフランクルは彼の著書「夜と霧」に書いていますがその「鍵」は「希望」の有る無しだったそうです。厳しく凍りつくような冬が世界的規模で包んでいる今日この希望を歌う歌を心に留めたいと思います。

(牧師 古財克成)

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ハバクク書2:2

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 キリスト教会の暦では今、救い主イエス・キリストの十字架の道を偲ぶ四旬節を過ごしています。3月の第一金曜日は「世界祈祷日」と呼ばれて全世界のキリスト者が最寄の教会で「和解と平和」を求め祈りを共にします。1887年米国の教会の女性たちが移民や抑圧されている人々のために 祈祷日をもったことから始まり、1920年に四旬節の第一金曜日が「合同(世界)祈祷日」となりました。日本では「太平洋戦争」の時中断しましたが1932年から守られています。
 今年はマレーシアの教会の女性たちが平和と歓迎を意味する「スラマッダタン」という日常の挨拶の言葉をもって「正義をきたらせたまえ」というテーマで祈りをまとめました。私は1992年ジェフリー張家忠兄の招きでマレーシアを訪ねたことがあります。他民族国家で宗教も多様ですが共生社会を祈念し「スラマッダタン」と親しみをこめて交わす挨拶は「シャローム」を思わせます。ジェフリー兄の伯父は日本軍の侵攻の折抵抗して殺されたと現地で教えられ言葉を失った記憶があるだけ祈祷日の「スラマッダタン」は懐かしく新鮮な思いでした。祈祷文を通して私たちに「祈る者から行動する者へ」呼びかけ導かれると世界祈祷日国際委員会のアイリーン・キング氏は記しています。
 3・11一周年を迎える時なお瓦礫の山が復旧への道にある厳しい現実があります。「平和と調和の社会を築く上で公平と正義を」と祈る世界祈祷日の祈りは「3・11を忘れないと誓った私たちの祈り」です。

(牧師 古財克成)

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ヨハネの黙示録3:20

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 保谷教会では東日本大震災一周年にあたり11日の主日礼拝で「追悼と再生を願う連祷」を捧げました。「悲しみの中から神に叫ぶ不慮の死を迎えた犠牲者・愛する人を失った悲しみの中にある人たち・放射能の脅威によって故郷から離れなければならなくなった人々・被災した方々に寄り添うため心を尽くしている人々の声を聞いてください。主よ私たちの祈りを聞いてください」と祈りをあわせました。
 「3・11複合被災(地震・津波・原発)」(岩波新書・外岡秀俊著)といわれる東日本大震災から一年、3月11日の新聞「声」に「宗教者の在り方問う原発事故」と題して臨済宗の住職が、教団として「原子力に依存しない社会の実現」という宣言文をだす決定をしたという一文が目につきました。「知足(足るを知る)」を実践し、持続可能な共生社会を作るため努力することを決意」した宣言文です(3・11朝日新聞「声」)。思えば昨年十二月全日本仏教会が「脱原発宣言」を発表しましたが、そこには「いのちを脅かす原発への依存を減らし、原発に依らない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指します。誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのでなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければなりません」と宣言しています。
 第二次世界大戦下多くの仏教者が戦争反対の声を上げず口を閉ざし、その懺悔もしていないことを反省し、今こそ原発問題で発信すべきだという姿勢を会長の河野太通氏は語ったそうですが決意と祈りを覚えます。午後2時46分・各地で追悼の祈りが捧げられました。「主よ、わたしたちの祈りを聞いてください」。

(牧師 古財克成)

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申命記31:23

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 子どもたちは大人や教師たちが本気かどうか見ている。本気な大人や教師を待っていると話してくれた先生がいました。「中学生日記」に見る卒業式を控えたある中学校のいじめにあう生徒と教師をめぐる出来事です。一人の生徒手帳には「中学の三年間は最悪だ。繰り返されるいじめにあいもうたくさんだ。すべてを終わりにしよう。卒業式の日に死んでやる」とその方法まで詳しく日記に書いてあった。真面目に熱心にクラスの指導に当たっていた担任の教師はそんな生徒の深刻な悩み苦しみに気づかなかったが偶然手帳を目にして衝撃を受けた。どんなに悩み苦しんだだろう。「15歳やそこらで死のうと考えさせるとは一体何が、生命を絶とうなどと思わせていいのか」。
 2009年郵便不正事件で起訴され無罪となった村木厚子氏は「辛く苦しい立場におかれると、その立場に固定化されて心が動けなくなることがある」と言っていますが、担任の教師は生徒と向き合い、家庭と向き合い、クラス全体と向き合い教師たちと向き合い皆そろって卒業式を迎えられるよう奔走しました。無視され、反対されても耐え必死に向き合って話し合った。生徒は担任の教師に言った。「いじめはなくならないと思う。いじめる人は自分が弱い者をいじめてるとは思っていないから。だけど僕は今一人じゃないと言ってくれる人がいる。僕のことを誰かが見ている。それが分かったから生きていこうと思う。」と。卒業式当日変則的ではあったがクラス全員で互いに祝福しあい卒業式を迎えました。「いつも共にいるよ」と語りかける神の言葉こそ大きな支えです。

(牧師 古財克成)

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ローマの信徒への手紙10:9

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 以前紹介したことがありますが4月2日は「JELC(日本福音ルーテル教会)宣教開始記念日」(教会手帳参照)です。1893年4月2日佐賀で復活日の礼拝が守られまた。この時がルーテル教会の日本伝道の始まりでした。ルーテル教会の初代宣教師シェーラー先生(1892年来日)は次に派遣された宣教師ピーリー先生と共に翌1893年佐賀に福音宣教の拠点を求めて赴き主の復活日礼拝を最初の礼拝として守りました。
 1873年「キリスト教禁制」の高札が廃止となりましたがキリスト教伝道は厳しい試練の壁がありました。キリストの福音はその中垣を超えて働き人を送り伝道を進めてくださいました。当時の時代的背景は「富国強兵・殖産興業」の道程が整ってきた時といえます。1889年「大日本帝国憲法」発布・1890年「教育勅語」発布、1903年「国定教科書制度」が制定されました。内村鑑三不敬事件が1891年のことでした。このような時代背景の中で「イエスは主である」という信仰に立って「復活であり命である主キリスト」の福音を宣べ伝えたのです。宣教課題をもった大きなチャレンジであったと思います。大事にしたいと思います。
 「JELC宣教の日」(教会手帳2月12日/1892年2月ルーテル教会最初の宣教師シェーラー師来日記念)から120年多くの厳しい試練の中で神さまはみ手の内に私たちを導き成長させて今日の宣教課題の前においてくださいます。十字架の主が先立ち行かれます。受難節の日々主の十字架を見上げつつ歩みましょう。

(牧師 古財克成)

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ルカによる福音書23:34

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 イエス・キリストは十字架につけられ殺されました。ユダヤの指導者たちと群集の罵声、ローマの兵士たちの勝手な行動に、イエス・キリストに従った弟子たちは恐怖のあまり逃げ去りました。イエス・キリストの母マリヤと彼女を囲む二三の婦人たちが十字架のもとにとどまり悲惨な最後を見届けたと聖書は記しています。聖書の福音書は驚くほど冷静にこの一部始終を伝えています。
 十字架につけられたイエス・キリストは十字架の上で二つの祈りを合わせ七つの言葉を口にされました。その一つに「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という祈りがあります。イエス・キリストは十字架につけられ衣服を剥ぎ取られ、罵声を受けながらその罪の赦しを神に祈られたのです。この大きな愛に心打たれます。しかし、そのために十字架のもとに展開する罪の数々が不問にされていいのか。彼らの犯す罪が見過ごしにされ、赦されていいのかと言う問いが残ります。
 この赦しの祈りは、赦しの主が罪の裁きを徹底して引き受けてくださった愛の祈りそのものです。十字架に罪の裁きを徹底的に負われたが故にこそ祈られた赦しであることを忘れてはならないと思います。4月8日は主イエス・キリストの復活を祝う時です。いま私たちは十字架の主イエス・キリストに聴き、十字架の赦しの愛に思いを馳せたいと思います。

(牧師 古財克成)

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ヨハネによる福音書20:18

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 「主は復活された」という知らせは衝撃的で信じ難いことでした。「本当にこの方は神の子だった」(マタイ27:54)と心から告白した最初の人はイエス・キリストの弟子たちではありません。イエス・キリストを十字架につけ殺すために指揮をしたローマ兵の百人隊長でした。彼はイエス・キリストの裁判の時から人々の嘲弄を受け足蹴にされ十字架を負いゴルゴダで十字架につき、息を引き取られるまでの一部始終を見届けたと思います。そこに神さまによる罪の裁きを徹底的に負いぬき、罪の赦しを祈るイエス・キリストの愛に本当に罪の裁きを受けるのは私たちだと気づき、十字架に神の子救い主の姿を見たのです。
 イエス・キリストは十字架に死んでお墓に葬られ(マタイ27:59)三日目の早朝イエス・キリストは復活されました。すべての人はいずれ死んで生涯を閉じます。誰もが疑い得ないこの事実の視点が根本から「本当にそうなのか」と問われた事態が起こったのです。イエス・キリストの十字架は罪が赦され復活の生命に生きる道を開かれたのです。私たちの生涯がどのようなことであれ無意味なことはない。イエス・キリストによる救いの生命が約束されているのです。
 4月8日教会ではイエス・キリストの復活を祝う復活祭・イースター礼拝が守られました。天田真理姉の洗礼式が行われ共に食卓を囲み感謝と喜びを分かち合いました。お墓を後にして復活の生命に生きるイエス・キリストは真に永遠の生命の希望の主です。復活の主を讃美しメッセージに聴きたいと思います。

(牧師 古財克成)

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ヘブライ人への手紙12:1

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 北海道大学の前身札幌農学校でキリスト教信仰に基ずく教育により、学生に深い感化を与えたウイリアム・スミス・クラーク博士が残した「青年よ大志をもて」という言葉はよく知られています。札幌農学校在職期間は約10ヶ月でしたが後に札幌農学校の校長を務めた佐藤昌介、札幌独立教会牧師大島正健、はじめ内村鑑三、新渡戸稲造など多くの指導的人材が育ちました。
 クラーク博士は着任した時、第一に「自己の良心に従って行動せよ。鉄則は一つ紳士たれ。」第二に宗教教育として聖書を教え「イエスを信じる者の契約」を勧めました。その信念と姿勢は植物採集活動など生徒に進んで自分の背をかし踏み台となって指導したと言われます。クラーク博士が帰国する時送別会で、当時北海道開拓使長官黒田清隆はクラーク博士の働きに「開拓の念願とする農業教育の整備確立、その教育課程は必ず有用な人物を排出する。全面的に満足している」と謝辞を述べたそうです。
 1877年4月16日クラーク博士は札幌を離れますが別れを惜しんで見送りに同行する学生たちと島松で別れる時、馬上で残した言葉が「ボーイズビーアンビシャス/青年よ大志をもて」でした。この言葉に続いて「キリストによって」という言葉があったとも言われていますが頷けます。クラーク博士が去って今年は135年となります。「イエスを信じる者の契約」のもとに多くの指導者を生み出した働きは、まさに主キリストの証人としての働きとして覚えたいと思います。

(牧師 古財克成)

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箴言23:18

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 「気温ならすぐに実感できるのに体感できぬミリシーベルト」(「朝日歌壇」福田万里子)というのがありました。3・11東日本大震災と原発事故をめぐる災害の深刻さをついています。作家の半藤一利氏は「第二の敗戦」といっています。「日本人がエネルギー政策を確立できず、歴史に学ばずに敗れたということ」です(朝日新聞「再生日本政治」半藤一利)。1954年、ビキニ環礁での米国の水爆実験の時第五福竜丸は危険区域外にいたのに「死の灰」により被爆しました。「危険区域外にいたのに死の灰が降ってきた。そんな「想定外」が起きるんじゃ核なんてなくさないと危険だ」と乗組員の談を吉田文彦氏は取材しています。
 1979年3月28日米国スリーマイル島の原発事故による放射能漏れがあり、1986年4月26日チェルノブイリの原発事故災害は多くの犠牲者が出て世界各地へ放射能汚染をもたらしました。ヒロシマ・ナガサキを経験し、今日フクシマと私たち被爆国は大変な課題に直面しています。都合の悪いことは起きないで欲しい、起きないはずだ、 起きないに違いないと「想定外」をどんどんつくっていったこの空中楼閣からはもう抜け出したいものです。
 「東日本大震災被災者へ読者から」の投稿に「大変とは大きく変わるという意味だ。被災地から離れた私たちができることは、今までの考え方・意識・行動などを大きく変えていくことでもあると思う」(横浜市主婦植松政子氏)とありましたが5月にルーテル教会の総会では脱原発問題が討議される予定です。

(牧師 古財克成)

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箴言23:18

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 「気温ならすぐに実感できるのに体感できぬミリシーベルト」(「朝日歌壇」福田万里子)というのがありました。3・11東日本大震災と原発事故をめぐる災害の深刻さをついています。作家の半藤一利氏は「第二の敗戦」といっています。「日本人がエネルギー政策を確立できず、歴史に学ばずに敗れたということ」です(朝日新聞「再生日本政治」半藤一利)。1954年、ビキニ環礁での米国の水爆実験の時第五福竜丸は危険区域外にいたのに「死の灰」により被爆しました。「危険区域外にいたのに死の灰が降ってきた。そんな「想定外」が起きるんじゃ核なんてなくさないと危険だ」と乗組員の談を吉田文彦氏は取材しています。
 1979年3月28日米国スリーマイル島の原発事故による放射能漏れがあり、1986年4月26日チェルノブイリの原発事故災害は多くの犠牲者が出て世界各地へ放射能汚染をもたらしました。ヒロシマ・ナガサキを経験し、今日フクシマと私たち被爆国は大変な課題に直面しています。都合の悪いことは起きないで欲しい、起きないはずだ、 起きないに違いないと「想定外」をどんどんつくっていったこの空中楼閣からはもう抜け出したいものです。
 「東日本大震災被災者へ読者から」の投稿に「大変とは大きく変わるという意味だ。被災地から離れた私たちができることは、今までの考え方・意識・行動などを大きく変えていくことでもあると思う」(横浜市主婦植松政子氏)とありましたが5月にルーテル教会の総会では脱原発問題が討議される予定です。

(牧師 古財克成)

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