■2008年5月~2009年4月
聖書日課によるヨブの回想の言葉です。何事もうまくことが運ぶように見える時には、たとえ神さまが沈黙されていたとしても私たちは、神さまに導かれているように思います。しかし、逆境の中では何故と問い、神さまの導きの中にあっても神さまは沈黙していると思いこんでしまいがちです。ヨブが最終的に訂正を迫られた課題でした。
最初のキリシタン大名となった大村純忠が洗礼を受けたのは1563年のことでした。反キリシタン武士たちの反抗も熾烈で純忠も窮地に立たされた時期もありましたが長崎港開港発展や天正遣欧使節派遣などの働きはよく知られています。1582年には大村領のキリシタンは6万人を越えたといわれます。神さまの導きを感じます。
しかし、秀吉の禁教令によるキリシタン弾圧が大村領に及び4人の神父が殉教しました。彼らは1617年5月15日聖霊降臨日に牢内でミサを守り、次いで22日三位一体祝日のミサが最後となり斬首殉教したと伝えられています。厳しいキリシタン迫害の歴史は悲惨な暗雲が覆う中に神さまのみ手の導きを見て「おびただしい証人の群れに囲まれてる」力を覚えます。ヨブ記の課題は今なお私たちに信仰の大事なメッセージを伝えているようです。
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家族と一切の所有を一夜にして失い、自身は全身重い皮膚の病に冒されるという苦痛の中でヨブは「わたしが生まれた日は消えうせよ(3:3)」と神さまに訴え、何故善良な者が苦しみ、悪が栄えるのかと世の不条理を問い続けました。
医師のキュープラーロスが小児癌で亡くなった男の子ダギーの「命ってなに」「死ってなに」と言う質問に答えた手紙があります(ダギーへの手紙)。「タンポポの種が風にふかれて方々に落ちるように、わたしたちはいろいろな人生があります。住みよいところ、とても住みにくいところ、長い人生、短い人生があります。しかし神さまの愛は大きい者にも小さい者にも同じように注ぎ包んでいます。船が水平線の向こうに見えなくなっても、船が消えたのではなく見えなくなっただけです。信じられないほどの神さまの大きな愛に包まれるのです」と暖かい言葉が祈りのように聞こえます。
世のさまざまな出来事はすべてが直接我々の責任ではないと思います。ましてそのすべてを正しく解釈し解決することは到底望めません。しかし身近に起こる大小の課題と真面目に取り組み解決を真実に求めていこうとすることは創造の神さまの支配のもとに愛に包まれて生きたヨブの姿勢であり応答ではなかったかと教えられる思いです。
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1953年ころです、西武柳沢駅の改札口を出て線路に沿い人家の疎らな路地を左に行くと踏み切りがありました。踏み切りを渡ると雑木林に囲まれた畑の坂道を二つほど曲がると大きなけやきの木々に囲まれた茅葺の農家がありました。その間を抜けると青梅街道です。街道を横切り坂道をしばらく行くと右手に木造の東京老人ホームがありました。
ホームでは毎朝松永チマ先生を中心に皆さんが広間に集い礼拝がまもられていました。日曜日には東京教会の本田牧師や都内の牧師が礼拝を担当したほか当時中野区鷺の宮に在った神学校の学生が応援に加えられました。私もその一人としてご奉仕する機会を与えられ緊張しつつ奨励を終え松永チマ先生と共にホームの朝食を囲みました。この集いから記録では1953年保谷教会組織がなされ感謝のうちに受洗者が与えられました。
東京老人ホーム設立の発端は1923年9月の関東大震災により罹災した人たちの救済のため、12月から故本田伝喜牧師と故スタイワルト牧師の尽力により現在の港区にあったスペイン公使館敷地に始まった働きにありました。その後杉並区高円寺に移転し1936年保谷柳沢の現在地に移転し今日に至りました。 (東京老人ホームHP参照)
東京老人ホームは「キリスト教の愛の精神に基づき、人間としての尊厳を考えるホーム」として「喜びをもって生きることが出来るコミュニテイ実現を使命」として来ました。神さまはこのコミュニテイから保谷教会の形成への道を開いてくださいました。
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東京老人ホームがある旧保谷市は2001年1月田無市と合併して西東京市と改称されました。昔は畑作地帯と位置づけられていました。開墾の初めは江戸時代です。1882 年上保谷新田・下保谷新田が合併して保谷村(旧保谷市とほぼ同区画)となり1907年北多摩郡に属し1940年保谷町となりました。1915年から1927年にかけて西武池袋線西武新宿線が開通し、次第に人口が増加しました。1945年当時の人口は10,052名と記録されています。
第二次世界大戦後は保谷市柳沢と東伏見に都営団地が建設され、1959年ひばりが丘団地の建設などにより人口が急増、都市化への道を辿り1967年保谷市となり、住宅都市として位置付けられました。都市化への進展はホームの祈りの集いとして始まった保谷教会が地域に開かれた集いとなろうという希望となって成長しました。
東京老人ホームが柳沢の現在地に移転したのは1936年のことですが、この年2・26事件や前後して美濃部達吉による「天皇機関説」に対する論議を引き摺り二度にわたる「国体明徴」声明、「国民精神総動員」実施要綱の決定、「宗教団体法」の議会通過等将来に関わる出来事が相次ぎました。
日本福音ルーテル教会はこの激動期1935年聖霊降臨日礼拝を「特別祈祷総員礼拝」として守り1936年「家庭集会中心に教会躍進運動」の決定。1937年にはこれを継承し「ルーテル教会精神の強調運動」を決議しました。世の動静の中で宣教と奉仕を使命として教会がはじめた教育事業・福祉事業に対する主体的姿勢に関わる大事なことだったと思います。
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所謂戦中戦後と言われた時期「日支事変、第二次世界大戦の進展に伴って有料の入居希望者多く一人一室の家屋を増設して入居開始」。1949年「終戦後の生活難、住宅難のため入所希望者が増加したため、約55坪の新築と10坪の改築をなし、収容定員を55名した。また500坪の農地を与えられ、自活の一助とした(保谷教会50年の歩み参照)」とありますが、当時の東京老人ホームの職員一同の言い知れないご苦労が偲ばれます。
1955年神学校を卒業した私は、山口県三田尻(現防府市)の開拓伝道の任命を受け東京を離れることになりましたが1952年国民一人当たりの所得が戦前に戻ったといわれ経済成長の離陸と急上昇をはじめる頃です。「神武景気~岩戸景気」と騒がれ「マイカー」「ストレス」という流行語を生み、「使い捨て」「飽食」「地球まるかじり」時代の台詞が流行りました。時のしるしでしょうか。
1955年日本福音ルーテル教会の定期総会では新しく教会憲法を制定し第二次大戦後のいわば復興期から体制を整え組織的宣教活動に踏み出すことになりました。自給 5ヵ年計画・海外ルーテル諸教会との伝道協約・地区会から地方部会組織の結成・日本福音ルーテル教会創立60周年記念事業・そして四国伝道の決定・電波伝道の開始・信徒会結成と言う歩みを踏まえてのことです。
保谷教会が(旧)会堂と牧師館を現在地に与えられ、献堂式が行われたのは1960年12月20日ですが1950年代から1960年代にかけての社会の動向と活気に満ちた教会活動が背景にありました。この時代に「伊勢神宮国家保護」「靖国神社国家護持」「建国記念日」などの法案に反対声明を公にし時代の流れに注目したことは「時のしるし」として記憶に留めたいことの一つです。
(牧師 古財克成)
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「保谷ルーテル教会30年記念誌」(1983年)「日本福音ルーテル保谷教会50年の歩み」(2003年)には先輩や兄弟姉妹方が私たちの教会の生い立ちから発展成長の過程を分かり易くまとめておられます。それによると教会を組織した1953年5月12日の礼拝で「山本さんと大島やす姉が本田伝喜牧師から洗礼を受けられた最初の方々」です。そして教会学校活動は地域との接点を次第に広げつつありました。
保谷教会は東京老人ホームの中から出て地域社会に拠点としての会堂と牧師館を与えられ活動を始めるときが来ました。1960年12月20日岸千年牧師により献堂式を迎えた保谷教会の出発に際して野田藤男牧師が寄せられた30年記念誌の言葉から要約すると、目標「地域教会の形成」そのために(1)地域に周知徹底。(2)ルーテルアワー聴取者の訪問。(3)特別伝道集会の開催。立て看板設置・案内ビラ配布があります。
当時考えられた「伝道領域」としては小金井・吉祥寺・保谷・田無があげられ、伝道重点地区として柳沢駅・東伏見駅・東京老人ホームから武蔵野女子学院近辺。「牧会領域」として東京老人ホームから保谷・清瀬・田無・小平・都区内に在住する信徒諸兄姉を結ぶ領域があげられます。点から線へそして面に向かっての展開はこれからの課題ですが、これらの伝道牧会領域は当然近隣諸教会のそれと重なって来ますので共同/共働が視野に入ります。
保谷教会の「創生期・少年期はホームの人たちが熱心に支えられた」と神田国春兄は思い出を30年記念誌に述べておられますが、聖霊のお導きのもと地域の教会へと育てられ歩みを強められたことを覚えたいと思います。
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エネルギーの主役が石炭から石油に代わり1950年代末から社会は都市化・産業化が急速に進行しました。石油コンビナートが太平洋ベルト地帯を形成し人口は過密化傾向一方炭鉱の相次ぐ閉山と過疎化の進行から有形無形の歪が見え始め「安保問題」が問われ教会は宣教計画に関わる射程が問われたのではないでしょうか。
1962年初夏大内弘助牧師(故)は主日礼拝後、東京老人ホームを訪問し病床にある信徒と聖餐を共にすることを教会役員会に図り早速ヘンシェル婦人宣教師(故)、神学生、教会役員を伴い施設長松永チマ先生を交え主日礼拝後の病床聖餐が行われるようになったと古財徳夫兄は30年記念誌に記しています。
日本福音ルーテル教会にとって1963年は一つの節目となった時期でした。海外のルーテル諸宣教団体はそれまで宣教協約により伝道地を受け持ち活動していましたが、これからは新しく日本福音ルーテル教会に合同し、組織・行政等一本化するという「合同総会」が開催されました。協約による伝道領域は東(含北海道)・東海・西・九州教区を形成することとなり、日本伝道を支援する海外諸教会も日本伝道協力として窓口を一つにしました。またブラジル伝道の開始やルーテル神学校の4年制大学改組認可はこの時期です。悲惨なベトナム戦争もこの時期始まりました。
1965年から66年にかけて「大伝道計画」が実施されました。聖書研究運動・ルーテル教会の存在意義・礼拝における一体意識を主旨としたものです。また並行して「全国レベル開拓伝道計画」が立てられました。土地・会堂(多目的)・牧師配置を同時実施する思い切った計画です。北九州黒崎・四国高松・岡山・八王子・北海道釧路の5箇所で着手されました。
(牧師 古財克成)
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保谷教会のある西東京市の姿の一面に目を向けて見ますと、保谷市と田無市が合併し西東京市が誕生したのは2001年1月のことです。合併の協議は1955年代から始まっていました。保谷市が田無市の3分の2を囲むような地形と人口構造の変化、都市化への兆しからでした。高度経済成長とさわがれた1970年代にかけて人口は急増、その後増加率は落ち着きつつありますが、前述の通り保谷市は畑作地帯から住宅都市へ位置づけが移行しています。合併当時の西東京市の人口は179,699人でしたが2005年国勢調査によると189,735人とあり、最近5ヵ年では約1万人の増加となっています。
人口増加地域は高層住宅群が目立つ向台4丁目・谷戸3丁目・芝久保1~4丁目・柳沢2丁目・西原4丁目の順になっています。また1980年21.6%だった0歳~14歳の人口割合が現在13%に減少し、6.4%だった65歳以上の人口割合15.9%を示し人口構造の変化が見られます。因みに西東京市要覧によりますと、かつて社会学者が「全日制市民と定時制市民」と読んだ夜間人口に対する昼間人口は右上がりで保谷地区の74.4・田無地区では82.7となっています。
一方国の赤字国債発行状況は深刻ですが赤字国債の初めは1965年です。その頃「ベトナム特需」とか「核家族」の呼び名が起こり農業人口が20%を割り込みました。既成宗教をあざ笑うように若者を「洗脳」し「マインドコントロール」という言葉が聞かれ始めました・保谷教会では大内牧師を補佐して当時牧師館に起居した神学生だった上道信義牧師は「教会学校には3歳位の子から中学生まで来ていました。記憶に残っているのは榎本 茂さんご兄弟・清水さんのご兄妹、古川文江さんなどがおられました~教師には美しい加藤久子さん」と30年記念誌に教会活動の一端を振り返っています。
(牧師 古財克成)
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保谷教会が東京老人ホーム内に誕生してから柳沢の現在地に地域教会として会堂・牧師館が与えられた1960年を第一の節目とすれば、1969年は第二の節目となる時でした。初めて牧師館に定住する牧師を迎え教会としての伝道計画が立てられ歩みはじめた教会が1969年白髭牧師の赴任により「自立計画」のもとに歩むところとなったのです。
白髭牧師は長年九州博多教会の牧師を勤められ日本福音ルーテル教会が教区組織へと改組される前、下関教会から博多教会に赴任され北九州部会長を勤められた経験豊かな牧師でした。個人的なことで恐縮ですが山口県防府市開拓伝道に赴任した私は当時北九州経済圏と広島経済圏の間に位置する防府市がどちらかを指向し、歴史的にはザビエルを受け入れ、持代の先駆的役割を担いつつ明治に入って津和野でのキリシタン殉教が起こった環境での伝道圏について白髭牧師を何度か訪ね親しく学びご意見を伺ったことでした。
海外の諸ルーテル教会の経済的人的支援を多く受けていた日本福音ルーテル教会が「自立宣言」をしたのは1970年のことでした。受けるる教会から与える教会にという自覚・日本経済の成長著しい環境から支援を受け続けることへの批判・日本の諸教会・団体の相次ぐ自立への決断などさまざまな要素がありました。しかし主体的決断をもって臨むことを選択したといえます。
保谷教会では1969年度教会総会において「東教区自給推進5ヵ年計画」に沿って1972年自立を目指すことになりました。第二の節目です。その時白髭牧師が提案したことを30年記念誌に「(1)保谷教会の特殊事情を生かすため教会員相互の交わりのための具体的計画を実施。(2)保谷教会自給達成のため、教会員各自の自覚を促すと共に献財精神を高めるように指導する」と記しています。
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日曜日の主日礼拝の時、教会の玄関を入ると受付を担当される方々と平岡牧師の笑顔に迎えられます。新しくこられた方々もきっと来てよかったとほっとされたことでしょう。保谷教会では主日礼拝から諸集会・クラス・グループ活動があります。日曜日朝の洗礼準備クラス・主日礼拝/教会学校に夕べの祈り/東京老人ホーム。主日礼拝後の聖歌隊練習・婦人会・青年会・壮年会の集い・木曜日の聖書を学び祈る会・聖書に親しむ会・土曜日のホサナクラブと楽しい学びと交わりと奉仕の働きが積極的に続けられています。このホームペイジをご覧になりますと、教会案内と、これらのクラスとグループの活動と内容が紹介されています。
日曜日の主日礼拝には平岡牧師と役員の方が礼拝出席を楽しみにしておられる老人ホームの皆さんの足となって奉仕がなされています。神さまのお導きのもと牧師・役員の方々と婦人・青年・壮年会それぞれの担当の諸兄姉の一致した奉仕は主キリストの教会がここにあるというしるしを担う大きな証と讃美になっていることでしょう。
保谷教会にとって最初のグループ活動でしょうか、教会の女性の交わりから婦人会が組織された時のことを30年記念誌から榎本とみ子姉の言葉を紹介します。「ある礼拝後、大内先生から婦人会を作ったらどうだろうというお言葉がありました。自分は教会の婦人会なるものの経験が全くありませんでしたので、すぐお答え申し上げることは出来ませんでした。・・・時熟していよいよ37年(1962年)9月16日、礼拝後、教会において第一回婦人会が開かれました。初会合のため今後の婦人会の行き方について相談されました。」 (1)第三日曜日礼拝後例会(2)各自キリスト教への理解を深める・・など数項目が記載されていますが皆で力を合わせ地域との接点が次第に広がりつつあるなと言う印象です。
(牧師 古財克成)
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保谷教会のホームペイジを開いてみますと美しい画面の教会案内があります。「主日礼拝」に「教会学校:幼稚科・小学科/毎週日曜日9:15~10:20」また「ホササナクラブ/対象は幼児から小学生:ピザ作り・タコス&アイス作り。昭和記念公園にBBQ・フラワーアレンジメント(母の日)など季節に合わせて楽しいイベントを企画しています/毎週土曜日11:00~13:00」があります。
保谷教会の誕生は1953年東京老人ホームの集会室に始まった礼拝からですが、ほとんど時を移さず地域の子どもたちの礼拝と交わりとして教会学校が始まりました。当初は教会と地域と言うより老人ホームと地域を身近なものにする接点となっていました。1960年現在地に会堂・牧師館が与えられ、地域に生きる教会形成へと歩みだした時は、柳沢団地周辺の変貌と共に教会活動の大きな働きを担っていました。
「保谷教会50年の歩み」によると1980年代に入り、幅広いプログラムのもと「子どもたちの出席は40名ちかくなり地域社会との結びつきに根をおろしつつあった」とあります。教会学校で育ち教会学校教師としてご奉仕にあたる古川文江姉は「教会学校の歩み」でベビーブーマーの時期から塾とお稽古熱、そしてゆとり教育(第二土曜休日)、少子化という社会問題にインターネットの波が子どもたちと家庭を揺り動かしました。その対応としてホサナクラブが始まりました。時代と子どもの環境に向き合い、教会活動の努力と工夫が教会学校教師によって続けられていました。
「人間関係がますます希薄になり、なんでも自由に自分の力で手に入れることが出来る時代。そして生命までも人間の手で作り出そうとする時代だからこそ、私たちの力を超えた存在であり、すべてのものの創り主であって私たちの助け主である神さまを伝える使命はますます大きくなるのではないでしょうか」と結んでいます。
(牧師 古財克成)
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1969年保谷教会の定期総会で「1972年自給教会{第一種教会}達成」と言う目標を掲げました。その時忘れてならないことは「保谷教会自給の第一義的なものは伝道にある。教会全体で考えたいのは「一体、保谷教会の宣教の在り方はこれで良いのか?」と過去の歩みを反省して自己批判をして行くことである」と白髭牧師が「30年記念誌」で指摘した言葉です。
「伝道計画」や「方策」は人間の考えることで完全なものではないし、限界もあります。第二次世界大戦後、日本福音ルーテル教会再建のための総会では自給独立を決議し、1949年の総会で「自給5ヵ年計画」設定、1969年「自立宣言(アスマラ)」、1970年の「1975年自立を目指」す宣言に見るように「自給教会形成」は大きな課題でした。宣言といえばマニフェストともいわれますが、マニフェストといえば課題を感じます。
伝道する教会を取り巻く人々の生きる現場は環境や年齢を問わず常に激しく問われていました。当時いざなぎ景気が終わり学園紛争・万博・光化学スモッグ公害・沖縄本土復帰・日本列島改造論・浅間山荘事件・老人問題(恍惚の人)に見る通りです。
保谷教会では自立達成の歩みの中で青年・婦人・壮年の集いの地道な学びからデアコニアキャンプの取り組みが始まり、地域の中で教会学校は着実に成長しつつありました。自立達成と言う目標は伝道する教会の在り方・姿勢こそがその一歩だと思います。
(牧師 古財克成)
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保谷教会の誕生から会堂・牧師館献堂そして自給教会への道程を、保谷教会30年記念誌と同50年の歩み記念誌から表にまとめてみると以下の通りです。
年度 | 牧師名 | 協力者 | 備考 |
1953 | 本田伝喜 | 都内教職・神学生 | 教会組織/東京老人ホーム内 教会学校活動始まる |
1955 | 石松量蔵 | 都内教職・神学生 | |
1956 | 本田伝喜 | 都内教職・神学生 | |
1958 | 野田藤男 | 青山四郎 | 現在地に会堂・牧師館献堂 地域教会形成へ |
1961 | 大内弘助 | 上道信義神学生 | 役員会組織・病床聖餐始まる |
1962 | 大内弘助 | 松隈貞雄神学生 | 婦人会結成 |
1964 保谷市誕生 住宅都市 |
大内弘助 | 福井徹神学生 | |
1968 | 白髭市十郎 | 会堂横和室・台所増築 | |
1969 | 白髭市十郎 | 1972年自給教会を目指す | |
1971 | 白髭市十郎 | 予定より1年早く教会自給達成 お茶の会・半日修養会開催 |
主の教会に働いてくださる主なる神さまの、変わらざる恵みと導きを感謝して覚えるものです。
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私たちの保谷教会は1971年自給教会(同年7月実施)となりました。「保谷教会自らが主体的にこの課題に応える熱意が伴わなければ一年早めて(計画では翌1972年実施)の自給も出来なかったであろう。昭和28年(1953年)の教会組織以来19年を経て~自分の教会は自分たちで支え、維持し守ってゆこうとする連帯意識が湧いてきたことは、よろこびにたえない(保谷教会30年記念誌)」とあります。
現在地に会堂・牧師館を与えられ、地域教会として歩みはじめた第一の節目から約10年、自立達成と言う第二の節目を迎え、信徒の一致した力強い足並みは活動計画にも反映し、「この年には(1)二回の「半日修養会」の開催。(2)主題「信仰と生活」・「信仰と生きがい」(3)三つの会に分かれ最近の社会問題・教会の問題など自由に発言しあった」と記録されています。
1960年代末から1970年代初期は激動する時代といえたようです。明治百年記念・紀元節復活・靖国神社国営化反対・ベトナムソンミ村事件・大学紛争・東名高速道路全通・アポロ月面着陸・万国博覧会・反安保条約・沖縄返還協定・老人福祉法改正・光化学スモッグ公害認定等の問題が相次ぎました。答えを得ぬまま課題を引き摺るように歴史の遠景へと押し流してきた感があります。この激動の時代に社会に目を向け「信仰と生活」について話しあわれたのは信仰の告白的姿勢を見つめる大事な機会であったと思います。
(牧師 古財克成)
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1970年代は教会が自立に向かって歩みだした時です。「総合自立計画」が立てられ、1975年までに自立を達成しようと言う決意が表明されました。九州・西・東海・東の各教区(北海道地区は当時東教区に属していました)は教区全体として、先ず各個教会の維持・活動の自立(補助教会は自立教会が共同して補助)をすることを目的としたものです。そのために自立教会は特別協力金を拠出し協力しました。
「総合自立計画」は海外の補助を受ける学校・施設の自立と土地建物資金の課題も共に視野に含むものでした。しかし、全体の自立は容易ではありません。まず教区の組織の中で各教会全体としての自立達成に踏み切ったのです。資産を生かした運用により資金を生み出す「収益事業」が計画され、市谷センター・小石川カテリーナ・大阪会館・広島センターが具体化して行きました。当時経済的な厳しい中で東教区は積極的に開拓伝道を計画着手しました。
1971年東教区は「仙台鶴が谷開拓伝道」が計画されました。鶴が谷地区新住宅街区計画の一定区画に保育園を設置する計画の一つを教会に提供運営主体となることについての市の打診を受けてのことです。各個教会の意見を聞き賛否を図り教区はこの提案を受け入れ実施に踏み切りました。鶴が谷教会・保育園(希望園)開設にむけ東京老人ホームの協力と共にルーテル神学大学宣教研究室と共同の鶴が谷街区の調査を実施しました。(鶴が谷開拓伝道調査報告参照)
また、東教区では1975年「北海道伝道強化推進計画」を立て、北海道地区諸教会の意見と協力をもとに帯広開拓伝道を開始することになりました。教区はルーテル神学大学宣教研究室と共同で2年間の帯広地区開拓伝道調査を実施しました。地域性を把握し教会活動開始の折には理解と接点を得るため、また活動拠点となる候補地調査にありました。市役所・各町会長宅・市内諸教会など訪問し話を聞きアンケート調査が行われました。
(牧師 古財克成)
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「地域教会となる」ことは自給教会として歩みだした保谷教会の希望でしたが地域社会は概ね20年前後で変化していくそうです。20年もすると住民の世代交代期に入り、移動或いは「核家族化」が起こるからです。所謂戦後から20年の1965年前後「マイホーム主義」が流行「マンションブーム」がおこりました。「教育の爆発」といわれ、大学生数は百万人を突破、中教審(中央教育審議会)は「期待される人間像」を発表しました。時局をどう捕らえ対処するかが問われた大事な時期だったようです。
ある映画監督が「人生にとって変わらない風景があることは大事」なことだといっていますが、私たちはどのような風景を描いてきたのか、描こうとしているのか、また残そうとしているのか課題は大きいと思います。「塩」はとけて自らの存在が見えなくならないと味を残すことは出来ません。「光」は自らの存在が闇の中に溶け込んでしまったら光の持つ役割を果たせません。たとえ小さくても光は光として自らを燃焼しつつ自らの存在を示す時、闇の中にあって周囲を明るく照らします。地域社会に生きる教会信徒の姿でしょうか。
保谷教会では青年会が榎本兄を中心に「イワンデビソニッチの一日」の読書会が始まり、婦人会の働きとしては島田養育園の共同作業奉仕に着手、翌1976年に三五夫人による「くるみ会」はヘンシェル先生の指導により島田養育園入所者の社会対面が行われました。また中央線沿線地区諸教会の交流を深め、甲信地区教会との具体的な宣教協力も着手されました「保谷教会30年記念誌」。
(牧師 古財克成)
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地域教会として歩む保谷教会が自給を達成して7年、教勢の低下という課題に直面しました。「教会の伝道は人数の問題ではない」とも「伝道は人数に表れる」という意見もあります。教勢が問われる時、その教会の歴史や伝統や地域によって多少の凹凸はあるものの、概ね教会の総会員数の約半数が現住会員数で、その約半数が礼拝出席数(含求道者)だといわれてきました。それは教会の牧会領域と伝道領域の裾野がどうなっているかを考える上で注目されることだといえます。
1970年度の礼拝出席平均58名から以後平均46名だった礼拝出席数が1977年度は41名と減少傾向が見えました。保谷教会ではその原因は「老人ホームからも地域からも礼拝参加者が多くないことが低下の原因」として「伝道意欲」を問い「教勢進展をを計る努力が足りなかった」と反省しました(保谷教会30年記念誌)。
しかし保谷教会ではこの年、積極的な伝道計画が進められました。1)石田順朗牧師・鈴木浩牧師が11回の主日礼拝説教を担当。2)労働聖日を定め松隈頸兄・三五康子姉・木村猛兄がそれぞれ信仰に直面する問題の体験について語り。3)修養会が五日市で開催され「東教区信徒育成講座」を学びました。4)修養会の成果について「今回の修養会に参加して共に学ぶ機会が与えられ、共に語りあう機会が与えられ、共に祈る機会が与えられ、また信仰の友としてお互いを理解し話し合うことができた(古財武久兄:30年記念誌)。」と記しています。5)この年保谷教会誌「ひろば」が発行されました。
次の節目に向かいつつあった保谷教会はみ言葉に養われ充実した歩みをする時だったといえます。第三の節目ともいえる新会堂建築計画が持ち上がり、1977年度保谷教会総会では先ず「改築積み立て」の開始を決議して将来に備えました。
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1976年は日本の人口構造上一つの変化をもたらしたときでした。所謂戦後生まれが総人口の過半数となりました。1960年代東京・大阪・名古屋の三大都市の人口は全人口の32%ほどでしたが現在は50%に近づき、大都市人口集中化が加速されました。
住・職・余暇の場所の分離が進み繋ぐ交通手段が複雑化していきました。急速に都市化・産業化する社会の中で教会は宣教体制を問われてきました。校内暴力・家庭内暴力の急増が報道され教会学校の生徒数減少が各地で指摘されその傾向はやがて教勢にも影響し始めたようです。
しかし「教会の歩み(保谷教会年表/50年の歩み)」によると保谷教会では教会学校の生徒数が増え出席平均40名と言う勢いでした。元気いっぱいの子どもたちの憩いの場となり、神さまを礼拝し聖書に聞く心の養いの時であり自由なひと時です。教師陣の対応のご苦労と努力が偲ばれます。幼稚科担当は古川文江姉・小学科女子担当は岩月園子姉・小学科男子担当は天野宅司兄・中学科担当はナンシー姉の4名でした。「教会全体の責任で教会学校の充実を計るべきではないか」と積極的取り組みの姿勢を保谷教会30年記念誌は当時のことを記しています。
1981年は保谷教会が自給教会(第一種教会)として歩み始めて10年目「地域からの出席者が少しづつ増え保谷教会の質的な成長からみて喜ばしい。保谷教会は老人ホームという福祉施設と地域社会の接点で今後さまざまな宣教活動がこころみられねばなるまい」と改めて報告されています(30年記念誌)。
(牧師 古財克成)
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1982年保谷教会伝道30年の記念のとき「42年の間、牧師として生き語り続けた私が新しい年を迎えて心に決するものが起こった。それは牧師の定年を早めて、保谷教会15年の奉仕に休止符を打つことであった。・・・保谷教会がせねばならぬこととやったことは、一つだけであった。それは礼拝を中心に教会形成を進めることであった。」と白髭牧師は決意を述べ総括しておられます(保谷教会30年記念誌「新年の抱負」)。白髭牧師の働きは、自立を目指し、達成して10年、新会堂建築計画に向かう一つのステップを形成したと思います。
教会に仕え代議員として尽力される木村 猛兄は「今年は私達の保谷にとって記念すべき教会発足30周年、30年の歩みは、壮年期への一支点である・・(保谷教会30年記念誌)」と述べ、またこの年白髭牧師に協力を惜しまず月一回の礼拝説教を担当し、聖書の学びを担当された内海 望牧師は「充電期から放電期へ」と教会の方向転換の時を迎えている(保谷教会30年記念誌)と奨励しました。
1968年(昭43年)から15年間、保谷教会の伝道・牧会を担ってこられた白髭牧師は豊かな経験と豊かな賜物をもって保谷教会の自立への足場を固め、自立を達成し新会堂建築計画募金開始という大事な時期の教会形成に尽力されました。そして保谷教会の「壮年期への支点」を据え、保谷教会30周年記念を期に定年を迎えられました。白髭牧師は一つの節目を刻み、惜しまれつつ保谷教会を後にされました。この間の主日礼拝出席平均は記録によると男性11名・女性32名・計43名となっています。
白髭幸子牧師夫人は「15年前、一枚の地図を頼りに、私共は吉祥寺に下車した。アブラハムの心境と言いながら。そうして何の予備知識もないままに上京し、与えられた教会は実に精神的に豊沃な大地であった。教会生活は充実していて、聖日が待ち遠しく、あっという間に15年経ってしまった。」と思い出を30年記念誌に記されていますが今尚私たちが分かち合う主の恵みです。
(牧師 古財克成)
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「神を愛し、隣人を愛せよ」と教えた主イエスの言葉から「敬愛会」というグループが九州学院にあります。第二次大戦後の再建期私も友人に誘われ参加しました。クラスも学年も違う仲間が共に聖書を学び、語り合い、校外活動も活発にしました。ある事情から夏休みは市役所の衛生課でアルバイトもしました。その時の一人池田雅夫兄はトランペットの名手で後に芸大に進み、私とはつかず離れず出会いの機会がありました。私が北海道に転勤してからは共に会う機会がありませんでした。
昨年夏九州学院の先輩で剣道部の上村希文兄と当時九州学院の院長川瀬清先生の長女川野文子姉が保谷教会に出席され50年ぶりの再会となりました。川野文子姉は熊本でハイスクールYMCA連盟が創設され私が委員長の時書記として活躍されました。池田雅夫兄と共に中学・高校時代からの仲間です。
9月21日の保谷教会での主日礼拝では一緒に礼拝を守る機会を与えられました。坂根信義兄が昨年に続いて中継点役を果たしてくださったお陰です。坂根信義兄のご尊父は牧師でした。神学生のころ熊本でお目にかかったおり戦時下の空襲で燃える家並みから身の危険を顧みず逃げ遅れた方々の救助にあたられたことを教会員の方から伺い、深い感銘を受けたことを思い出します。
私たちの人生の遠景や中景や近景には感謝と試練、喜びや悲しみや労苦もありますが意外に多くの兄弟姉妹の消息が重なっています。そこには教会の多くの信仰の仲間と結ばれている自分を見出し励まされます。こうして私たちは神さまのお導きのうちに支えられて歴史を共有するばかりか「聖徒の交わりを信じる」教会の交わりと恵みを感謝のうちに覚えます。
(牧師 古財克成)
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1980年当時保谷教会が属する東教区の地理的領域は広く北海道から神奈川県に及ぶ地域でした。北海道は九州と四国と山口県の一部を含む面積があります。人口は約550万人で人口密度は77人です。東京23区では5700人です。それだけ自然に囲まれた恵まれた地域でもあります。ルーテル教会の伝道は1916年札幌の地に始まりました。1980年当時は函館-札幌-札幌北-池田-帯広-釧路の6教会に成長し東教区北海道地区として共働しました。
「北海道伝道を推進する会/北伝推」の働きがありました。ご記憶の方も多いかと思います。東教区の信徒運動として北海道の諸教会との交流を起こし、機動力として自動車を送り青年伝道キャラバンを送り会堂・牧師館の補修に教区の諸教会と共に保谷教会もが支援協力しました。
1980年ルーテル教会は北海道地区の教区化を目指し「北海道伝道強化推進15ヵ年計画」を採択し予算化し人材を投入教区組織に必要な12教会形成に着手しました。この計画によって新札幌教会と恵み野教会が生まれました。15年計画の終了年度1995年当時結果的に目標の12教会組織には至りませんでしたが8教会となり特別教区となりました。現在は新体制のもとに編成が進む中で活躍しています。
北海道では暖房が要らない期間は夏場一週間くらいで一年中部屋にストーブがにあります。10月から翌年5月くらいまで暖房と給湯のため毎月400リットル平均消費します。夏涼しく冬暖かいといわれる釧路では真夏の一週間の気温が25度前後で冬はマイナス15度前後になります。教区内共同体の異なる地域の現実でした。宣教上の交流と共働は大事な視点だと思います。
(牧師 古財克成)
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1982年伝道30年を記念した保谷教会は第三の節目を迎えました。「地域に向かって伝道 しよう」の主題は保谷教会組織当初から掲げられ、1960年現在地に会堂(旧)を与えられた 時からいよいよ具体的に取り組んでしてきました。当初考えられていた伝道領域としての地域 は時代により変遷してきたようです。
地域の街並みも住民も20年前後で変わって行きます。世代交代も進むし意識の変化を呼び、 住宅や店舗の改装も経済動向も時期があるからです。保谷市では戦後20年前後で集合住宅 の建設など人口の急増により畑作地区から住宅都市へと位置づけが変わり市制が施行されま した。マンションが登場し「核家族化」という言葉が定着しはじめ「期待される人間像」が話題を よびました。集合住宅の多くは当初選んで住むというより、そこに住まざるを得ない時代であった ため平均5年で移動が起こるといわれていました。
それから20年の1980年代入り「サラ金問題」や「校内暴力」「いじめ」が社会問題化する一方 「一人暮らし老人」が史上初の100万人を突破し65歳以上の自殺者が増加と言う悲しい現実 も見えていました。社会学概念にアノミーという言葉があります。共通の価値や道徳的基準を失い 混沌とした状態です。聖書で「神の律法を持たない人/コリント一9:21」アノモスが語源です。
また戦後40年中曽根首相による初めての「靖国神社公式参拝」が行われアジア諸国の批判を 招きました。同じ時、西ドイツのワイツゼッカー大統領は「過去に目をつぶり見ようとしないで将来を 語ることはできない」と「戦争によるドイツナチスの犯した過ちを具体的に上げ謝罪」し出エジプトの 旅に重ねて演説をしました。大いなる節目といえます。
(牧師 古財克成)
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1984年第三の節目に立っての主題「地域に向かって伝道しよう」は、保谷教会にとって教会組織以来の基本姿勢の確認ともいえます。具体的計画として外部講師による年二回春と秋の「特別伝道集会」があります。各集会によって2300枚・5000枚・1000枚・700枚と数のバラつきが見られ気になるところですがビラの配布とポスターによる案内が行 われています。
会堂の老朽化に伴い新会堂建築に向かって募金活動が始まったのは1977年でした。それから10年、1987年会堂建築準備委員会が発足、当時教会に隣接する東京老人ホーム別館用地と聖文舎による事業案とあわせて協議が始まりました。この案は直接教会の計画に関わることなく経過、建築準備委員会が再開されたのは1990年でした。この時ご奉仕にあたった委員は「西兄(長)・島宗兄・中島兄・迎兄・木村兄・山崎姉・阿部節子姉・古川姉・ 田中牧師・ヘイッキネン宣教師(保谷教会50年の歩み)」と記録されています。
1989年ベルリンの壁の崩壊は大きなニュースでしたが、80年代から90年代は統一教会による若者の洗脳や出家集団問題とオーム真理教の社会問題化が深刻でした。問題の解決と若者救出活動に尽力する平岡正幸牧師の働きは活動に当たる方々の大きな励ましでした。
1991年保谷教会の総会では三つの決議がなされました。1)目標:主日礼拝出席50名・現住会員100名・会計規模1000万円。2)保谷教会規則改正。3)会堂・牧師館改築の三点です。因みにこの年の主日礼拝平均出席は50.5名(含子6.5名)でした。この目標は達成を見ましたが主日礼拝出席平均は1995年の57名(含子4名)をピークにやや右下がり傾向となっています。
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新会堂建築計画に伴い1991年には新しく会堂建築に関わった他教団教会を訪ね見学し、その経緯や経験を聞き参考に供しました。期待と共に地域との関わり・資金問題や本教会との関わりなど課題もありましたが自分たちで出来ることに力を結集しました。そしていよいよ保谷教会の新しい会堂(現会堂・牧師館)の建築に着手するときがきました。
1992年3月旧会堂・牧師館の解体撤去作業を控え同年3月29日旧会堂での最後の主日礼拝を守り4月5日主日礼拝からは東京老人ホームの2階ホールで礼拝は守られました。思えば保谷教会は1953年この東京老人ホームで産声を上げました。その後の保谷教会の成長と発展を共にかみしめ感謝する期間を与えられました。
1960年から地域伝道の拠点として礼拝と交わりの集いと共に親しまれてきた旧会堂・牧師館の解体撤去は人情としては辛く寂しい経験でもあります。しかし福音を告げる整えられた神の民としての自覚と使命に向かって希望の一歩踏み出そうと決意する私たち信徒一人一人の祈りを主なる神さまは導き用いてくださいます。
1992年10月18日完成した新会堂(現会堂)で最初の礼拝が感謝と喜びに包まれ守られました。そして11月8日小嶋三義牧師の司式、三浦 謙牧師の説教により献堂式が祝福の内に行われました。参列者約100名であったと「保谷教会50年の歩み」は報告しています。1960年代の田園地区から高層住宅にに囲まれるように地域は変貌しています。役員諸兄姉と建築委員として計画・準備に当たった諸兄姉そして協力を惜しまず祈り活動された信徒諸兄姉の奉仕を記念するように新会堂は内部が明るく主に招かれて礼拝する者を癒す福音の光が包み、相応しい仕方で福音を携えて歩むよう励ましています。
(牧師 古財克成)
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1993年8月日本福音ルーテル教会宣教百年大会が九州熊本で開催されました。宣教2世紀に向かって一つの大きな節目です。ルーテル教会にとって宗教改革の聖書のみ・恵みのみ・信仰のみの三つの柱を確認する機会だったと思います。その一つは、思い出に残る喜びと感謝の諸行事と共に、その百年の歩みを踏まえ歩むべき姿勢を宣言した「宣教百年記念信仰宣言」にあったと思います。
1993年8月日本福音ルーテル教会宣教百年大会が九州熊本で開催されました。宣教2世紀に向かって一つの大きな節目です。ルーテル教会にとって宗教改革の聖書のみ・恵みのみ・信仰のみの三つの柱を確認する機会だったと思います。その一つは、思い出に残る喜びと感謝の諸行事と共に、その百年の歩みを踏まえ歩むべき姿勢を宣言した「宣教百年記念信仰宣言」にあったと思います。
時勢は急をつげ、キリスト教界の多くの指導者や牧師・信徒が捕らえられ獄中の人となり拷問を受け殉教しました。戦後ルーテル教会再建と言う大事な節目に立って指導的役割を果たされた岸千年先生はその一人でした。百年と言う歴史は教会がよって立つところは何かを教え、大事なことことが出来なかった・しなかった・しようとしなかった痛みと悔いを示され、主イエスの恵みによる以外に何もない信仰を悔い改めのうちに学んだときでした。
1992年11月新しい会堂・牧師館の献堂をした保谷教会は1993年5月上道信義牧師ご夫妻を迎え創立40周年記念礼拝を守りました。4月には日本福音ルーテル教会宣教百年を記念し東教区は国際キリスト教大学を会場に記念大会をを開催、8月には九州熊本の九州学院・市民會舘で宣教百年記念全国大会が開催され保谷教会からは「田中牧師・迎兄・山崎姉・西姉・島宗兄・石丸姉・古川姉の7名が参加(保谷教会50年の歩み)」と記録されています。
(牧師 古財克成)
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「この世で出逢うすべての人とは、見えぬ糸でつながっている」。これは放映中のNHKの連続TVドラマ「だんだん」の主題曲の一節です。だれもがそうだなと思う言葉です。み言葉の宣教について改革者が「わたしが隣人に出会わざるをえないというのが、この地上におかれているわたしの状況だとすれば、わたしの存在の使命はこれらの人間関係に即して説かれ生きることだ」と言った言葉も身近に感じます。
隣人と私を取り巻く時代や社会環境と溢れる情報から受ける影響は、気がついた時には大きな流れとなって迫り押し流していきます。そこで隣人と出会わざるをえない私たちだから「聖書は福音の宣教によってわれわれに開かれ、われわれの前に広げられる(和協信条便概)11:13)」と言う言葉の射程の広さを感じます。
1994年「久しぶりに教会の修養会」が開かれました。記録によりますと1985年木村牧師の時代に奥多摩「福音の家」で持たれた一泊修養会以来のことです。当時会堂・牧師館建築計画が軌道に乗り、田中牧師を迎え建築計画の着手などの条件も重なり教会活動も修正せざるを得ない時期でした。1994年は5月の一日修養会と7月に教会学校と合同の一泊修養会が山中湖で開催されました。
5月の一日修養会は「キリストとの出会い」「信仰者としての体験」を主題に分断協議話し合いガもたれました。7月の一泊修養会では教会の年間主題「キリストによって成長」をテーマに礼拝・分断・交わりのときを持ちました。参加者は30名と報告されていますが実は教会の諸計画には全員が参加していると言う自覚が大切です。祈りによる参加もあり準備の奉仕にあたる参加や主題やテーマに思いを馳せ考える参加もあります。それぞれのところで皆が参加し恵みに与り共有し共に実りを感謝し成長に与るのです。
(牧師 古財克成)
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1995年「この年は、1月17日早朝阪神・淡路大震災が起こり、6000名の尊い人命が失われ、未曾有の大被害を生じた年で激震激動の一年であった。またオーム真理教の事件が示すような社会的・宗教的にも不安が続いた一年であった。(保谷教会50年の歩み)」。とあるように大勢の犠牲者が出た被災地の惨状が報じられました。直ちに全国から救出活動に加わったボランテアによる働きが始まりました。ルーテル教会では京都教会を拠点として活動が始まりました。
この年「被災した神戸の地から岡部五郎兄・静子姉と坂本辰夫兄・英子姉のご夫妻が加わってくださり、この年のクリスマスには岡部夫妻が共に洗礼を受けられた。(保谷教会50年の歩み)」ことは私たちに大きな励ましとなりました。
また1995年3月の地下鉄サリン事件には驚きと恐怖が走りました。1994年の松本サリン事件に次いでオウム真理教の熱狂的信徒集団の仕業と判明、教祖の逮捕・解散命令を経て1996年4月公判が始まりました。オウム真理教は1984年ヨガサークルとして始まり教団を組織して宗教法人となり「救済者」を名乗る新興集団です。1995年当時は出家信徒1400人、在家信徒一万人を越える勢いだったといいます。
特異な集団が起こした特異な事件として報じられましたが、その集団が私たちの生きる社会の中に生まれ育っていたことは、私たちにとって実はとても深刻なことだったと思います。10年にわたる裁判は東京地裁による教祖に対する死刑判決で終わり東京高裁は裁判を打ち切りました。マスコミも触れるように「手続き論」で終わりオウムは総括することなく「終わり」改称してアーレフが「始まり」となりました。総括なき始まりとは何か問題性を引き摺ったままに来ていると思います。
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11月26日夜(日本時間)インドのムンバイで同時多発テロ事件が発生し495人もの人々が犠牲となり死傷したとその事件の恐怖と深刻さガ伝えられました。 2001年9月11日世界中を震撼させた米国ニュウヨークで起きた同時多発テロによる残虐な破壊行為の記憶が重なりました。
世界規模で拡散するテロを根絶しようという目的に国際社会が手を携えたものの真の相手は宗教なのか貧困なのか深層は何か見えないままの争いは危険です。新聞の社説に「なぜ自由と民主主義を標榜する米国が狙われたのか」また「世界最大の民主主義」国家を誇るインドで」という指摘は考えさせられます。
1995年日本福音ルーテル教会宣教百年記念東京会堂の建築が始まり感謝と喜びのうちに献堂式が守られました。ルーテル教会を代表する会堂としての空間と信徒運動の拠点としてルーテル婦人連盟の事務局も設置され、諸教会の信徒の期待を担い宣教活動が進められています。北海道特別教区では1981年に始まった「北海道伝道推進15年計画」が終結し、その「総括と展望」が承認されました。
保谷教会では白髭牧師の定年退職後会堂建築と献堂をはさんで木村長政牧師そして田中博二牧師へと牧会が引き継がれ、主のお導きのもと充実と成長をしてきました。1996年6月には1968年から1998年に至る15年間保谷教会の牧師として働かれた白髭牧師ご夫妻を迎え礼拝と交わりの機会を与えられ励ましをいただきました。50年記念誌によるとこの年百歳を迎えた古財徳夫兄の感謝の祈りガ交わりの中でもたれ、先に召された主に在る兄弟姉妹への感謝を共にしました。
(牧師 古財克成)
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ハワイの真珠湾には1941年12月8日(日本時間)日米開戦を告げる沈んだ戦艦アリゾナ記念館と東京湾で日本の敗戦を告げる降伏文書の署名が交わされた(1945年9月2日)戦艦ミズーリ号が戦争のむなしさを象徴するように展示されています。1596年12月8日豊臣秀吉はキリシタン禁制を断行しましたが独裁強政策作にキリスト信仰は邪魔になるのでしょうか。歴史を通し教会の諸先輩がたの受けた試練は想像を超えるものがありまた。
迫害下に信仰の継承はさまざまな図形や造形に託され、相互の情報交換に供されたことは広く知られています。評価はいろいろあるものの、厳しい弾圧と迫害の中で耐え祈る背後に聞こえたであろう慰めと励ましは大きかったと思います。
北海道の札幌教会に「保谷教会が大好きです」という方がいます。大輪まり姉です。今日ではパソコンが広く普及していますが1996年北海道特別教区では全教会に宣教の武器としてパソコンを導入しました。広域な伝道牧会領域の教会と人間(じんかん)距離を埋めてメッセージを伝え、併せて会議に費やす時間と経費の節減に資するようにと言うのが当初の狙いです。その時大輪まり姉と裕美姉は実現に向け専門的知識と手法をもって計画を進め指導し方向を見失うことのないよう諸情報の交通整理をしてくださいました。
保谷教会のホームページコラムに奉仕の機会を与えられ、教会の温かい「聖徒の交わり」に触れ「保谷教会大好き」な方々が、またそのような交わりを求めている方々にとって保谷教会の宣教史が一つの情報になればと思っています。キリストの教会は私たち人間が必要とする前に神さまが必要とされました。神の独り子イエス・キリストはわたしたちのところに来てくださったのです。今そのことを感謝し祝うクリスマスの季節です。
(牧師 古財克成)
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今年の降臨節の日曜日の午後チャリテイーコンサートが保谷教会でありました。明治学院中等部のハンドベルクワイヤによる演奏です。カンボジアの恵まれない子どもたちの支援活動の一部です。明治学院東村山校のハンドベルクワイヤの演奏と交わりは1992年の秋に始まり1996年の宗教改革主日特別集会でも演奏されました。校長の坂根先生のご尽力と信徒の協力の賜物です。親子で祝うクリスマスとして大勢の地域の方々と演奏を楽しむことが出来ました。
1982年新しい会堂が献堂されてから保谷教会の地道な活動は次第に根付いてきました。主日礼拝の平均出席も1970年代・80年代は約45名・1990年代約52名(子ども4名)となっています。しかし50年記念誌には「教会学校を取り巻く環境の厳しさ」が報告されています。教師陣のご苦労がうかがえます。
2000年代は大きな課題を世界は担うことになりました。2001年9月11日ニューヨークにおける同時多発テロ事件の衝撃が世界を突き抜けました。その後も世界各地に飛び火しました。そして2003年イラク戦争へと発展し中東問題は一層深刻化しました。日本福音ルーテル教会では教勢の低下を深刻に受け止めPM21計画を採択機構改革と教会再編に着手しました。
今年秋の保谷教会一日修養会では「万人祭司性」について考え、自分の課題として積極的な話し合いの機会ととなりました。民は祭司を求めています。祭司は民の罪の赦しを神に祈り執り成し、神のみ旨を民に取り次ぎ告げました、主イエスの執り成しに与った私たちはおかれた歩みの中で、主の御前に祭司として立ち隣人を執り成し、主のみ言葉を証する恵みを生きたいと思います。主の新しい年が祭司性に歩む年としましょう。
(牧師 古財克成)
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嬉しいことに保谷教会では最近新しく教会を訪れ礼拝に加えられる方々が与えられています。主のお導きと感謝し、信仰の喜びに生かされる活気が伝わるようです。信仰に喜びをもって生きるそのことが伝道そのものだと思います。
さまざまな課題を引き摺り2009年を迎えました。昨年の暮れ12月27日イスラエルはパレスチナ自治区のガザに空爆を開始し3日夜には地上攻撃を初めました。パレスチナ情勢をよく弁えずに口にすることは控えるべきだと思いますが、1967年当時の協定線にイスラエルが戻ることが和平への一歩とはよく聞く国際世論のようです。
ガザといいますと聖書の中に登場する地名の一つです。士師記16章にはガザの人々に恐れられたサムソンの怪力をめぐるサムソンとデリラの物語があります。使徒言行録8章には聖霊に導かれたフィリポがガザに下る道でエチオピアの高官に聖書の解き明かしして信仰に導いた出来事が記されています。ビザンチン時代には教会が建築されています。そのガザの再三にわたる不幸な戦火に「寂しさ」を覚えます。
そのような2009年の元旦に保谷教会で主の命名日の元旦礼拝が守られ、4日には顕現主日礼拝が守られ平和に思いを馳せ互いに握手を交わし「主の平和があるように」祈りを合わせました。所謂年末年始は穏やかな暖かい晴天が続き、礼拝後の交わりのひと時は祝福と平安に満たされていました。主の平和を携えて歩む年の初めでありたいと思います。
(牧師 古財克成)
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この正月三が日全国の主な神社仏閣への人出は過去最高で一億人に迫るものだったと言います。信心かファションか頼り甲斐のあるものが求められているのでしょうか。100年に一度といわれる世界的不況の波の及ぼす影響は冷たく人の暮らしを締め付け「居場所」を奪っています。問題の「給付金」の定義も定まらず上から下へ与える意味の「給」は言い間違えや読み違いより思想の問題ではないでしょうか。
バラク・オバマ氏のアメリカ大統領就任はアメリカの歴史にとって大き節目となると思います。1963年8月M・L・キング牧師が「わたしには夢がある」と叫びとも祈りともとれる演説の声を思い出します。オバマ氏をマスコミは「人種の壁を崩した変化への希求」と評価しました。大統領選挙では「変化」を標語として「オバモメンタム」の合成流行語も生まれました。「Yes We Can」はCDにもなったといいます。しかし、内患外憂か外患内憂の処方箋は厳しいようです。
今年はガリレオ・ガリレイが望遠鏡で天体観測を始めて400年「世界天文年」に当たります。ガリレオは天体観測を通して、当時常識だった「天動説」を覆す発見を次々にしていきました。金沢大学の田中一郎先生は新聞の科学欄で「ガリレオは既成概念や権威から解き放たれた目で自然に対する観察と実験事実を素直に受け入れて結論を引き出す新しい時代の人だった」と述べています。
今年はガリレオ・ガリレイが望遠鏡で天体観測を始めて400年「世界天文年」に当たります。ガリレオは天体観測を通して、当時常識だった「天動説」を覆す発見を次々にしていきました。金沢大学の田中一郎先生は新聞の科学欄で「ガリレオは既成概念や権威から解き放たれた目で自然に対する観察と実験事実を素直に受け入れて結論を引き出す新しい時代の人だった」と述べています。
(牧師 古財克成)
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20世紀は戦争の世紀だったと言われました。それだけに大きな節目となる21世紀は戦争の無い平和な世紀の始まりにしたいと多くの人が期待したと思います。圧倒的な武力をもっても戦火は収まらないのです。戦争の状況も変わりつつあります。平和を幻想に終わらせたくありません。「変わることのない神の言葉への信頼」をもって歩みたいと思す。
保谷教会は現教会堂が献堂された1992年地域教会を目指して歩む一つの節目でした。この時期に伝道牧会にあたった田中博二牧師は1990年4月就任され会堂建築から献堂に関わる節目によく応え教会活動を整えてこられました。年間主題を定め教会員の動静と活動プログラム状況に礼拝出席などの記録を残されました。この一時期の礼拝出席平均は57名(含子4名)と記録されています。
保谷市と田無市は21世紀の初め2001年1月21日正式に合併し人口179,699名/世帯数78,000の西東京市が誕生しました。合併の協議が具体化したのは1998年です.少子高齢化・地方分権など社会状況の変化に対応することにありました。1990年代に0歳~14歳の人口割合は約22%が20000年代には13%に減少し65歳以上の人口は約6.4%から16%となっています。昼間人口の割合も当然増えてきました。
保谷教会は現在平岡仁子牧師と共に感謝と喜びをもって充実した礼拝に、み言葉に養われて役員・信徒・牧師の一致した奉仕を通して新しい節目に力強く立っています。 教会から半径約300メートル内に柳沢1~6丁目が入り人口約11,200人の地域を視野に福音の喜びをもってこの年を歩みたいと思います。
(牧師 古財克成)
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2月1日(日)保谷教会では2009年度の定期総会が開催されます。教会にとって大事な集いでいうなれば神さまの家族の集いです。悔い改めと感謝・慰めと励ましを受け希望を分かち合うものです。そのための諸活動報告資料は信徒の皆さんのご奉仕によって準備されました。作業は和気藹々と進められことと伺い感謝あるのみです。
総会では毎年主題聖句が選ばれ信仰生活の指針とされます。今年2009年度の年間主題は新約聖書エフェソの信徒への手紙6章18節の言葉です。使徒パウロは 6章に入り社会的秩序の問題に目を向けています。親子関係・主従関係です。どちらも共通の主が天におられ人を「偏り見る」ことなく平等の地平に立っているのです。神さまの前での平等という信仰的革新です。「信仰の目覚めた視野」には信仰の戦いが予想されます。
著者自身迫害のもとに「囚われの身」という絶望的状況の中でなお語るべきことを語るという課題を担い信徒の祈りによる支えは切実でした。自分の内からでる言葉によっては到底不可能です。神さまの助けが必要です。「すべての聖なる者たちのために祈り続ける」ことが薦められます。神さまの言葉に信頼して祈り、執り成し生きるのです。「根気よく祈り続ける」のです。
いかなる時にも隣人のため互いに執り成しの祈りが出来る道を備えられていることは実に恵みと言うより他はありません。この恵みのうちに共に歩む教会の諸奉仕活動について聞き恵みを分かち合い応えようと集められた集いが総会です。総会資料には、1)万人祭司として他者のために執り成しの祈りを捧げましょう。2)日々の生活の中で「主の祈り」を祈りましょう。と呼びかけられています。
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2月1日(日)、主日礼拝に続いて保谷教会の定期総会が開催されました。2000年代後半は力強く一歩一歩成長し東京老人ホームとの深い協調関係と共に、主に在る交わりを深め感謝と喜びをもって神さまのみ言葉への奉仕が続けられています。平岡牧師と役員・信徒一体となり各自分担して担う活動やグループの奉仕が大きな力となって主の栄光をを讃美しています。
私たちは国民の一人として人権が保障され一個の人格としての権利と責任を負うものです。保谷教会は日本福音ルーテル教会の一員として宗教法人という法律のもとに法人としての権利と責任を有しています。教会の定期総会で協議される事業計画・予算決算報告・教勢報告・役員選挙などの承認手続きは宗教法人法による責任の一部です。
このことは「キリストの体」として「聖徒の交わりを信じる」教会が具体的に世に在る在りかたの一面です。「主イエスは律法のもとに生まれて(ガラテヤ4:4)」くださいました。すべての人を救うためです(一コリント9:22)。神さまの愛ガ世に受肉化し福音となったのです。福音の受肉のため主イエスを信じる信仰に生きる一人ひとりを神さまは恵みをもって用いてくださいます。「万人祭司」といわれる所以です。
2009年度私たちは「万人祭司」の具体化を課題に、エフェソの信徒への手紙6:18節のみ言葉に学びつつ歩みます。世に生きる教会の諸活動・奉仕の連携を深め、祈り、神さまの栄光を証しようと歩み始めました。役員諸兄姉のご奉仕、そして美味しい食事の準備はもとより諸活動を支え推進を担う婦人会の皆さまに感謝します。混迷の度を増す世の動きのただ中で、絶えず根気よく共に祈りつつ歩みましょう。
(牧師 古財克成)
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甲府教会の平岡正幸牧師(平岡仁子牧師夫君)が5日(木)脳出血で倒れられ厳しい状態だと伺っています。各地の主に在る方々の祈りの中で静養されています。平岡仁子牧師はすぐ駆けつけて介抱の日々に病状はやや落ち着き15日(日)の主日礼拝を担当され、教会総会で選出された2009年度の教会役員就任式が行われ、会員一同感謝しました。平岡牧師とご家族を覚え主の平安を祈りたいと思います。
去る8日(日)午後、小平霊園の東教区の墓地で岡部五郎兄の納骨式が行われました。岡部五郎兄ご夫妻は1995年1月17日朝の阪神淡路大地震で被災され東京で過ごされた時、保谷教会の交わりに加えられクリスマス礼拝で受洗されました。その後、神戸に戻られ昨年12月天に召されました。8日はその納骨式です。
ご遺族の方々も8日(日)の主日礼拝を保谷教会で共に守り、礼拝の中で島宗正見兄が岡部五郎兄を偲び証をしてくださいました。遺影を前に在りし日に共に拝読した聖書を朗読、口にした讃美を共にして主の福音に聞き、祈りをあわせました。汲田神学生と教会役員諸兄姉のご奉仕によって無事に進められ感謝でした。
5日(日)主日礼拝で保谷教会の役員就任式を受けられた兄弟姉妹は次の方々です。代議員木村 猛兄・古財武久兄・書記榎本正夫兄・補佐服部 建兄・会計大谷忠雄兄・補佐古川文江姉の6名です。また、同時に私たちは教会学校教師・婦人会・壮年会・青年会・ホサナ会の各スタッフのご奉仕を覚えて感謝いたします。終わりに神さまのみ旨のうちに平岡牧師とご家族の平安を祈ります。
(牧師 古財克成)
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甲府教会の平岡正幸牧師が6日脳内出血で倒れ、主に在る兄弟姉妹の祈りの中で加療中でしたが18日天に召されました。略歴が語るように数々の目覚しいお働きに活躍され、これからも指導的働きが期待された矢先でした。20日(金)前夜式・21日(土)葬儀がルーテル学院大学チャペルで行われ、先生を惜しみご遺族を励ます参列者で溢れました。
葬儀は徳野昌博牧師・大柴譲治牧師の司式、聖書朗読を浅野直樹牧師・説教を徳善義和牧師・奏楽を伊藤佳代子姉が担当されました。復活の信仰に生きる者に相応しく参列者の拍手に送られた葬送でした。保谷教会の役員諸兄姉が式の進行にご奉仕くださいましたことは感謝です。ご遺族の上に神さまの平安があるよう祈るものです。
1909年2月28日北海道塩狩峠に差し掛かった列車の最後尾客車の連結器が突然はずれ客を乗せたまま峠を暴走しかけました。乗り合わせていた鉄道員の長野政雄は手動制動機を操作しましたが効かず車輪の下に身を挺して停止させ乗客の命を救った感動的出来事がありました。
三浦綾子著「塩狩峠」はこの事実に基づいた評伝小説です。著者あとがきに「こんな信仰の先輩がわたしたちの教会に生きておられたのか」と記しています。「塩狩峠」は1966年から「信徒の友」に連載され、後に映画化され多くの方々が感動されたといわれます。旭川六条教会を中心に毎年この日現地では記念の燭光祈祷集会が持たれています。
(牧師 古財克成)
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教会手帳を見ますと2月15日(日)は「JELC(日本福音ルーテル教会)宣教の日」とあります。また4月2日は「JELC宣教開始記念日」と記されています。「JELC宣教の日」は1892年2月アメリカのルーテル教会から最初の宣教師として派遣されたJ・A・Bシェーラー来日の時を記念するものです。
シェーラーは二番目に派遣(1892年11月)された宣教師R・Bピーリーと合流し、翌年佐賀に礼拝の場を求めました。最初の礼拝は1893年4月2日復活日でした。このときをを記念して「JELC宣教記念日」としています。
伝道地として佐賀が選ばれたことについてR・Bピーリーは「佐賀の公立学校の英語教師として就職していたブラッドバーリー博士がシェーラー氏に手紙を書き、佐賀がよい伝道地で必要なところだと説明し来るように求めた」ことによると「日本伝道開始の記録」に記しています。
佐賀は長崎と福岡の間にありキリシタンの交流も大きく佐賀郷土資料館の17世紀初頭の地図には南蛮寺があったことが記載されています。早稲田大学の創始者大隈重信(1838年~1922年)は佐賀藩に生まれ蘭学を修め、長崎で宣教師フルベッキ(ヘボンと共同で明治訳旧新約聖書の翻訳出版を1887年横浜)と出会い聖書と米国独立宣言に大きな影響を受け、教育者・政治家として果たした役割は大きいといえす。
佐賀は長崎に隣接し佐賀藩は長崎を守る特別任務がありました。1850年には西洋式反射炉を造り「大砲鋳造所」と読んでいました。いわば時代の先端を行く一面をもっていました。マケドニヤの声を受け止め応えた福音宣教の先人たちを覚えたいと思います。
(牧師 古財克成)
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3月から保谷教会の週報に新しい一行が入りました。週報の表ペイジです。保谷教会ホームペイジの連絡先が記載されています。保谷教会の沿革や働きと主日礼拝への招きに諸集会の案内等を見ることが出来ます。いつでもどこででも、誰もが見ることが出来る保谷教会の自己紹介と案内です。
ホームペイジは健康や育児や介護、仕事の都合や住まいの関係で教会の交わりからはなれている方々をはじめ教会を捜している方々との交流の器となります。いつどこででもそしてだれでも加わることができるということは教会の牧会領域は勿論、地区・教区そして、所謂教派・教団を超えて働くので共同牧会の課題でもあります。
教会は救い主イエス。キリストの福音の恵みを、教会に来ることの出来る方々とどう分かち合うかと言うことと、時間や距離やさまざまな事情によって教会に来ることの出来ない方々と福音の恵みをどう分かち合うことが出来るか祈り、奉仕や証を通して展開したいと願っています。伝道の教会です。ホームペイジはこのメッセージを伝える大きな役割を果たしていくことでしょう。
この網の目が情報洪水の一翼となったり中傷や悪用されることもあり評価はは分かれるところですが、いつでもどこでも学べるネット大学が2007年開学したり、世論を形成する場としてのインターネットの役割が注目されてきたというのは確かに新しい役割を担いつつあるようです。課題も多々ありますが宣教活動の一面を提供するものだと思います。
(牧師 古財克成)
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駅でビラを配布している人をよく見かけます。この前ビラとテイッシュペーパーを手渡されました。ある宗教団体の青年たちの「自殺予防の呼びかけ」活動です。ビラには「心のサインに気づこう」という文がありました。「いのちの電話」をはじめ自殺予防のための取り組みが続けられていますが現実の痛みは計り知れない苦しみがあると思います。
医療や福祉の取材活動をしているジャーナリストの上野 玲氏は自身が10年の欝治療歴を持つ体験から「この国は欝との戦争状態に入った」と警告し「自分らしさへの気づき」の機会として語っています。「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と使徒パウロは言っています。主イエスにおける神の愛に包まれ、支えられ、救われた喜びの言葉です。「主に在る交わり」の持つ「気づき」は福音の恵みです。
保谷教会の現在の会堂は1992年10月に完成し、最初の礼拝が守られ、11月に献堂式が行われました。1953年東京老人ホームの集会から誕生した保谷教会が現在地に旧会堂を与えられたのは1960年です。それから32年後のことでした。以前触れましたがその間いくつかの節目を経験しました。
第一の節目は地域教会を目指して現在地に会堂を与えられた時、第二の節目は初めて定住牧師が与えられた時、第三の節目は白髭牧師の赴任から自立教会となった時、第四の節目は保谷教会宣教50年記念をはさむ教会形成期。第五の節目は平岡牧師の赴任により一つ一つの節目がつながりを持って積み重ねられ成長していく喜びにある時です。
(牧師 古財克成)
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教会手帳の4月2日には「JELC宣教開始記念日」と注記されています(1893年4月2日復活日礼拝を最初の礼拝として佐賀で守られました)。また2月15日は「JELC宣教記念日」と注記されて(1892年2月最初の宣教師シェーラー来日)いることについて3月2日のこの欄で紹介しました。この時期はその後第二次世界大戦終了時までの日本の政治的。思想的・教育的歩調が確立された時のようです。
1872年太陽暦が採用され、翌1873年「キリスト教禁制」の高札が廃止となりましたが1889年「大日本帝国憲法」発布、1890年「教育勅語」発布、 1903年「国定教科書」制度が制定されました。「教育勅語」拝礼を拒否したという内村鑑三不敬事件は1891年のことでした。この時期の福音宣教の開始はチャレンジといえるかも知れません。
「ピーリー(シェーラーに次いで二番目に派遣された宣教師)の日本伝道開始の記録」 によりますと、礼拝が守られるようになってから反対や妨害もひどく、投石や扉が壊されることもあったようです。ピーリー牧師は必要事項として多くの働き人と神学教育・教会堂建築・キリスト教文書の配布・働きに関心をもつ友人・最大の励ましとしての祈り等をあげています。
1549年ザビエルの来日によって始まった日本におけるキリスト教伝道の歩みがそうであったように、日本におけるルーテル教会の伝道は厳しい幕開けでした。福音の主の要請に応え母国を遠く離れ、言葉の不自由もあり命がけの開拓伝道であったと思います。そうした中で主の働き人として福音宣教に従事した諸先輩たちの働きを感謝して覚えたいと思います。
(牧師 古財克成)
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主イエス・キリストのご復活を祝し、み名を讃美します。初夏を思わせる気候ですが保谷教会では復活日の礼拝が喜びの内に会堂いっぱいの兄弟姉妹と共に守られました。平岡牧師の主の復活のメッセージに聞き、洗礼式・移籍式が行われました。共に保谷教会の交わりの中で神さまが導き育ててくださいました。そして互いに「主の平和があるように」と挨拶を交わし、一同主の聖餐の恵みに与りました。
礼拝後は愛餐会がもたれました。婦人会の皆さんによって準備された美味しい昼食を囲み、楽しい歓談のひと時です。天使たちの讃美の歌声を思わせる「愛をこめた」歌。聖歌隊の皆さんの讃美に一同耳を傾け拍手が会堂に響きました。主の十字架の道を偲び、み言葉に聞きつつ過ごし救いを成し遂げられた主のご復活の喜びに満たされた一日となりました。
北海道大学の前身札幌農学校の初代教頭クラーク博士に学び、信仰に導かれた若者たちが後に科学技術や国際社会・キリスト教界に指導的働きをしています。クラーク博士が札幌の地を離れ帰米したのは1877年4月16日のことでした。その時見送った学生たちに残した「青年よ大志をもて」はよく知られています。この言葉には「キリストによって」と言う言葉が続いていたとも伝えられます。クラーク博士の信仰と教育姿勢からすれば頷ける一言です。
私たち日本福音ルーテル教会の宣教開始は1893年復活日礼拝からでした。イエス・キリストの復活の命の福音は当時の時代環境にとて大きな挑戦となったと思います。今日なお引き継いでキリストによって持つ大志ではなかったでしょうか。
(牧師 古財克成)
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毎年春と秋の主日礼拝後に四季を通して美しい自然に囲まれた小平霊園にある教区の墓地で墓前礼拝が守られます。今年の春の墓前礼拝は4月19日(日)午後大勢の方々が集い杉本洋一牧師(田園調布教会)平岡仁子牧師(保谷教会)の司式、関野和寛牧師(東京教会)の説教によって守られました。教区墓地開設当初の墓地の前は砂利道でした。また墓地の内部は現在の半分程度の広さでした。
礼拝後は集う方々もそれぞれの教会の枠を越えて、互いに旧交を温めあい、歓談の場となっています。この日は教区の墓前礼拝の後、故平岡正幸牧師の記念と納骨式が杉本洋一牧師の司式・説教によって行われました。平岡正幸牧師の前任地であった三鷹教会・甲府教会の皆さんと保谷教会の皆さんが共に復活の主を讃美しつつみ言葉に聞き平岡正幸牧師を記念し、ご遺族ご一同の主に在る平安を祈りました。
当然のことですが霊園には大小さまざまな墓標が見られます。「終の住処」とも言われていますが教区の墓碑には力強いメッセージが記されています。「「我は復活であり命である」という主イエス・キリストのみ言葉です。「終」ではなく復活の命が告げられているのです。明るい公園墓地の雰囲気は墓地という昔の暗い印象はありませんが死と向き合っています。そこに復活の主のメッセージが告げられているのです。
墓前礼拝は復活の主イエス・キリストに在る永遠の命のみ言葉に聞き励まされ、主に在る交わりの中で信仰の先輩の証を記念する時となるのです。復活の主のみ言葉に共に聞き慰めと励ましに満ちたひと時でした。
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「路帖百年/ルーテル」と大きく書かれたポスターが教会の玄関に掲示されています。その写真に見るように日本ルーテル神学校が1909年熊本に開校して今年は百周年を迎えます。その歴史を物語る写真と創立百周年記念行事の案内です。創立当時の最初の神学生の写真の中には保谷教会創立に関わった当時東京教会の本田伝喜牧師と1955年ご奉仕いただいた石松量蔵牧師のお姿が見えます。
1893年復活日最初の礼拝が佐賀で守られ、その日を日本福音ルーテル教会の宣教記念日としていることについて前に紹介しましたが、その時から16年後のことでした。1892年11月ルーテル教会二番目の宣教師として来日したピーリー先生は「日本伝道開始の記録」に「私たちは、神学教育をここでの私たちの仕事の重要部門であると考え、今後私たちが用いる全ての伝道者を土台から教育することを待望している」また「熊本は南日本の主要な教育センターである」と述べています。
1893年復活日最初の礼拝が佐賀で守られ、その日を日本福音ルーテル教会の宣教記念日としていることについて前に紹介しましたが、その時から16年後のことでした。1892年11月ルーテル教会二番目の宣教師として来日したピーリー先生は「日本伝道開始の記録」に「私たちは、神学教育をここでの私たちの仕事の重要部門であると考え、今後私たちが用いる全ての伝道者を土台から教育することを待望している」また「熊本は南日本の主要な教育センターである」と述べています。
1899年「アウグスブルグ信仰告白」の翻訳が完成出版されました。最初の教会総会が開催されたのは1900年のことでした。この時「機関誌路帖教報(1902年路帖新報に改名・現るうてる誌)」が発刊されました。福音が正しく語られ聞かれ、学び伝えられ、生きることの大切さが求められたことでしょう。いつの時代でも、どこででも失われてはならない主の教会の自覚です。日本ルーテル神学校創立百年の歩みの主である神を讃美し、その働きに祝福を祈りましょう。